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   2006年を振り返って
  2006年も間もなく終わる。景気はまずまずだったと思うが、「勝ち組」と「負け組」がはっきりしており、まだら模様の分、浮揚感はどこか乏しい。誰もが潤うという時代は残念ながら終わり、英知に長け、戦略を持って汗を流したところだけが恩恵を受ける時代になったようだ。ある意味では当たり前のことかもしれない。
 2006年は、個人的にはライブドアに絡む一連の騒動が最も印象に残った。ひとつの時代が終わったという思いとともに、村上ファンドなどにも波及した動きは何かの終わりの始まりという気もする。
 政治的にも首相が変わるなど節目となり、スポーツでも冬季オリンピック、サッカーW杯、高校野球など話題となる出来事があった。
 2006年の流行語大賞は「イナバウアー」と「品格」だったが、なるほどと思う半面、少し違和感もある。流行語大賞は多分に商業的戦略があり、毎年同じようなズレを感じる。その意味では大賞の2つは「想定内」でもなかったが、別に「予想外」でもなかった。むしろ「メタボリック」とか「脳トレ」が身近に感じるのは、単に年をとったせいだろうか。また今だに「お笑いブーム」が続いているようで、そうした流行語もいくつかあり、大賞候補にはならなかったようだが、実際にはかなり世間に浸透したという気もする。笑いを人々が求めているということは、暗い時代が続いているのかとも逆説的に思う。
 ともあれ、街にはクリスマスソングが流れ、いたるところでイルミネーションのライトアップが行われている。街中がクリスマスに浮かれているのを見ると、思わず、
 「欧米か?」
 と言いたくなる。これもひとつの「美しい国」なのか。
2006年12月25日
   セレンディビティ
  偶然から大きな発見をすること、あるいはそうした才能を「セレンディビティ」と呼ぶ。
 ノーベル化学賞を受賞した田中耕一氏のたんぱく質の質量測定の画期的な発見も材料配合の間違いから生まれたと言われる。あるいはそもそもノーベルのダイナマイト発明さえ偶然の産物だそうだ。研究の世界ではこの「セレンディビティ」については既に注目されており、企業の研究室などでは偶然を意図的に行う「意図的な偶然」への取り組みも行われているという。
 しかし当然のことだが、偶然から生まれたこうした画期的な発見も、それを見つけるのはやはり人の才能である。研究者の偶然という運は、いかにそれを意図的に表出する可能性を高めようが、所詮は人がそれを見つけることができるか、生かすことができるかという才能にかかってくる。セレンディビティを生かすも殺すも所詮は携わる人間の才気である。
 セレンディビティとまで言わなくても、人生におけるチャンスも同様である。誰だったか忘れたが「チャンスは誰にでも人生のなかで何回か降り注ぐものだが、誰もがそれをつかめるわけではない」ということを語っていた。
 そうだろうと思う。確かに、人生には転機があり、チャンスもある。ただそのチャンスを生かせるかどうかはその人次第だ。
 運がないと嘆く人は、まずその前に、チャンスを見逃さないだけの才気が自らにあるかどうかを問い直してみよう。
 自分を磨けば、運も開いてくる・・かもしれない。
2006年12月4日
   リセットボタン
  あなたにはリセットボタンが必要ですか?
 「リセット」という考え方が一般的になったのは、やはりパソコンやゲーム機の普及に負うところが大きいと思う。
 日常生活のなかでは、実はリセットできるということはなかなかない。今日は昨日の続きだし、明日も今日の続きである。昨日まで足が遅かった人が今日になったら急に俊足になることはない。昨日まで貧しかった人が今日になったら大金持ちになっていることもない。昨日まで抱えていたトラブルが今日になったら何もしないのに急に一気に解決することもありえない。
 しかし幸か不幸かパソコンやゲーム機ではそれができる。パソコンはデータ修復が可能だし、ゲーム機も何回でも自分の好きなシチュエーションになるまでやり直せる。パソコンやゲーム機に囲まれていると、人生もパソコンやゲーム機のようにリセットできるのではないかと勘違いしてしまう。パソコンの普及はリセットという概念を我々にもたらした。
 しかし人生では、いつでも明日は今日の続きだ。今日貧乏だったら明日も貧乏だし、今日抱えているトラブルは明日になっても何も解決されてはいない。残念ながら今日不幸だった人は明日も不幸だ。パソコンやゲーム機と人生は決定的に違う。人生は決してリセットできない。
 ただリセットはできないが、変えていくことはできる。貧乏な家に生まれたが今や大金持ちになっている人はいくらでもいる。人生の大きな危機をきっかけに逆に飛躍した人もいる。ただそれはリセットしたのではない。その人が走り続けただけだ。走り続けた報酬に神様が少しだけ微笑んでくれたのだ。
 しかし走らない人ほどリセットボタンがほしいと思ってしまうようだ。このごろ頻発している放火や殺人事件の犯人にもこの「幻のリセットボタン」が見えていたのではないか?
 冒頭の問いかけでリセットボタンがほしいと思ったあなた。ヤバイです。
2006年10月30日
   まだ始まりに過ぎない、はず
  SNS大手のミクシィ が14日東証マザーズに上場、その人気過熱ぶりが話題になっている。
 極めて象徴的な出来事だと思う。不特定多数の顔の見えない相手を対象としていたインターネットは、徐々に顔のある特定多数の相手を対象とするコミュニケーションの場になっていくのであるとすれば、それはやはり成長であり、自然な形だろう。まだその方向性には曖昧なとこともあり、どこでボーダーを引くかもファジーだが、現代社会はそもボーダーレスであり、ファジーでもあるのだから、新市場がそうしたことを孕むこと事態に違和感はなく、むしろ当然と思える。初めから形ができている市場などない。
 無論、ミクシィはSNSサービスのひとつの企業であり、トップ企業ではあってもすべてではない。SNSサービスはスタンダードになったがミクシィはコケタということも十分ありうる。しかしSNSサービスにはこの先大きな可能性がある気がする。というか、そうあってほしいと思う。
 思えば、2006年は年初にライブドアショックで始まった。そのライブドアの堀江元社長の裁判がまさに始まるなか、やはり同じように東大在学中から笠原健治社長によって起業されたIT企業ミクシィの人気化は、いやがうえにも主役交代を思わせる。
 冒頭で「象徴的」と書いたのにはそうした意味もある。ネットは今や新しい時代に突入しようとしていると思う。趨勢をしっかりと見守りたい。そしてできうればその一翼を担う志を持ちたいとも思う。
 ちなみにミクシィは、公開価格155万円を90%上回る295万円で初値を付けている。初値ベースの今3月期予想PERは197倍。上場初日は値が付かなかったが、2日目に初値をつけ、同日の終値は312万円。終値ベースでの時価総額は2,199億円となっている。高いか、安いか、既にバブルか、まだ時代の幕開けに過ぎないか、すべて結果はいずれ出る。
2006年9月19日
   オシムの言葉
  サッカーの日本代表監督に就任したオシムの言葉が話題になっている。
 確かに含蓄があり、示唆にも富んでいる。「限界に限界はない。限界は個々の選手の目標であって、限界を超えれば次の限界が生まれる」というのは啓蒙的だが、個人的にはむしろ、千葉の監督時代に敗戦後に語った「こぼれたミルクは元に戻らない。うちは勝ち点を失ってきた。電車は行ってしまった。駅に着いたのが遅かった」というような言葉の方が好きだ。あるいは巻選手を評して「巻はジダンにはなれない。でもジダンにはないものがある」という言い方の方が好きだ。
 オシムは全体に必死に取り組むことを要求している。その要求は極めてシンプルであり、サッカーだけでなくすべてに共通する当たり前のことだ。
 「レーニンは勉強して勉強して勉強しろと言った。私は選手に走って走って走れと言う」というのはわかりやすい。
 「ライオンに追われたうさぎが肉離れしますか?」と問うのもそうした思いの裏返しだろう。
 世間は夏休みである。街も電車も閑散としている。来週にはリフレッシュした人々が会社に、街に戻ってくる。人は24時間働くことはできない。365日働くこともできない。よく休むことがむしろよく働くことにもつながると思う。だからこそ逆に、オシムの言葉が響く。
 「残念なことにあなたたちに休みを与える。ただ、忘れないでほしいのは休みから学ぶものはないという点。選手は練習と試合から学んでいくものだ」
2006年8月14日
   未来の自分
  引退を表明したサッカーの中田英寿が周囲に明かした引退の理由として伝えられている言葉のなかで、
 「過去の自分と比べて衰えたからではなく、未来の自分を追いかけきれなくなったから(引退を決意した)」というものがあった。
 本当に中田自身が引退の理由としてその言葉を語ったのかどうかは不明だが、含蓄の深い言葉である。
 年を重ねると、ややもすると未来よりも過去の方が大きなウエートを占めてしまうが、大切なのはやはり昨日ではなく、明日である。
 企業も同じである。我々はよく企業の成長の物差しとして前期比何割増という言い方をしてしまう。しかし本当は、たまさか何割増になったかではなく、その会社が持っていたビジョンに対してどこまでの近似値で結果が出せたかの方が重要である。ビジョンが追いかけるに足るもので、そのビジョンに向かってどういう努力をしたかということの方が重要という気がする。
 個人も、企業も、未来の自分(たち)を明確に描けることが重要であり、そしてそれを追いかける熱い思いがなくなったら、どの世界でもやはり現役は引退ということだろう。
2006年7月7日
   過去と未来の間で
  サッカーW杯が始まった。日本がどのような戦いをして結果を残すかは、現時点では想像の域を出ない。各メディアは興味本位に様々な予想をしており、それはそれで面白いが、あてにはならない。所詮、勝負はやってみなければ分からない。実際に3連敗から優勝(!)まで予想も様々で、これだけ色々な予想があれば誰かが当たることは確実だ。
 しかしそうしたなかで、さすがと思わせたのが、サッカージャーナリスト後藤健生氏の指摘である。
 後藤氏は、予想としては決勝トーナメント進出も予選3連敗もどちらもありうるとみているが、その予想とは別に、今回の代表は「勝たなければならないチーム」として位置づけている。
 なぜかというと、それは今回の代表チームが過去と未来を犠牲にして成り立っているからだという。確かに、主力選手の大半は前回日韓大会に続く出場であり、若い世代からの選出は残念ながら皆無に等しかった。今回の代表は「過去の遺産を食い潰し、未来への投資も行っていない」という指摘は確かに一理ある。
 企業にもこうした例はある。過去の実績だけで未来への投資をおろそかにすると、企業の足腰は弱くなる。どんなに過年度の蓄積があっても、明日への道が見えていないとモチベーションは下がる。ただこのバランスは難しい。過去の実績は今日のパンにつながるが、明日への夢だけでは空腹を満たすことはできないからだ。
 しかし個人的には、理屈はどうでもいいから、足元で結果が出れば、それはそのまま明日への夢につながると思っている。今日が満ち足りていれば、人はポジティブになれる。それはそのまま明日につながる。
 頑張れニッポン。
2006年6月12日
   変わるということ
  過日テレビを見ていたら、アニメ「ちびまる子ちゃん」の再放送をしていた。
 数年前の放映分だったようで、まる子ちゃんの顔も、そして回りの登場人物の声も、背景の絵の感じもかなり違っていた。ずっと変わらないと思っていたものが、何年かの時を隔てて改めて見ると、結構変わっていたことに驚かされる。
 「サザエさん」も初期の頃と今とでは絵のタッチが全然異なる。あの「笑点」にも新メンバーが加わっている。少し話の次元が違うかもしれぬが「渡る世間は鬼ばかり」ではえなりかずき君に今では恋人がいる。
 よく「偉大なマンネリズム」ということが言われるが、何事もまったく変わらないということはない。変わらないことを売り物にしている番組でさえ少しずつ変化しているのだ。ただ我々がそれに気づかないだけであり、あるいは作り手の側が気づかせないように変化させているのだ。
 変わらない安心感というのは、決して不変ということではない。東京ディズニーランドが次々と新アトラクションを加えながらリピーターが同じ満足感を得ているのも同じ理屈だろう。
 ベクトルが揺らぐことなく、しかし変わりつづけるということは、とても大切で、そしてとても難しい。
 「バス停を毎日少しずつ動かし自分の家の前に置く」というのはオリエンタルラジオのギャグだが、実はそこには笑えない真実が潜んでいるような気もする。
 あの任天堂が昔は花札とトランプをつくっていたということをいつも思う。変わらなければ成長はない。
 ちなみに当HPサイトも5月にトップページをリニューアルしてコンテンツも増やした。任天堂のように、とまではうぬぼれていないが、オリエンタルラジオのようなギャグでも無論ない。
2006年5月29日
   自分だけの世界
  阪神電鉄と阪急電鉄の経営統合の話が浮上している。
 球団経営の問題もあり地元の人々にとっては「そうですか」ではすまぬようだ。話はまだ決着がついていないが、もともと阪神と阪急の電車が走るエリアは下町と山の手で、街並みも風土も全然異なる。無論、別に街を統合しようというのではなく、話は鉄道会社の問題であり、球団運営はさらにまた別のことなのだが、阪神ファンにとってはそうもいかないようだ。阪急傘下の阪神タイガースなど想像したくもないということだろう。
 風土の違いというのは確かにあり、理屈では割り切れない部分もある。企業の経営統合などでも、よく「企業文化が違っていた」という理由で統合を白紙撤回するケースがある。
 しかしもともと企業文化など違って当たり前なのである。芸術の世界では、異なったカルチャーの融合で新たな創造があるのはむしろ一般的で、むしろそうしたものを求めていく気質さえあるのだが、企業統合や球団のファン心理がそうはいかないのはなぜだろう。
 異質のものが交じり合うことで生まれるものは少なくない。異質を拒絶しては何も踏み出せない。ただ何かを生み出そうという思いがなければこうした議論は無意味だ。
 わが阪神がすべてで、会社のなかの自分の机だけが心配な人に変化を求めるのは難しい。
2006年5月8日
   敗れざる者たち
  イラクのサダム・フセイン政権が崩壊して4月9日でちょうど3年である。かつての権力者も今や獄中で、その栄光とは遠い存在になってしまった。フセインはなお意気軒昂のようだが、敗者ではあることには変わらない。しかし米国が勝ったかというと、それもまた疑問である。フセインは獄中だが、米国もまた出口のない混迷のなかにいる気がする。ベトナム戦争と同様に、結局はあの戦争にも勝者はいなかったのかもしれない。
 一方わが国日本では、かつては与党のなかでキングメーカーと言われた小沢一郎がついに野党の党首になった。創造と破壊を繰り返してきた男が、今まさに存在感そのものが問われている民主党をどう立て直すか注目される。かたや与党の党首である小泉首相はといえば、その在任期間がついに中曽根首相を超えて、戦後の総理大臣としては佐藤栄作、吉田茂に次ぎ歴代3位となっている。「自民党をぶっつぶす」と言って自民党総裁となった男は、自民党をつぶすこともなく、今や風格さえ漂う。政治の本流にいた男が結局は傍流を歩き続け、傍流にいた男が逆に長期政権を担っている。
 人生は皮肉である。ヘミングウェイの小説のタイトルが浮かぶ。そのタイトルは「敗れざる者たち」である。ヘミングウェイは小説を通じて敗者などいないと言いたかったのだろうが、逆もまた真なりである。勝者にこそ、この言葉を贈りたい。
2006年4月10日
   あれもこれもか、あれかこれか
  携帯電話の多機能化が進む。今やメール、ゲームはあたりまえで、テレビ機能、情報検索や閲覧、支払い機能なども標準化の勢いだ。携帯電話があれば財布も定期券もまして時計もいらないという時代はもう完全に見えてきている。
 一方腕時計の方でも携帯電話が持っている機能を装備させている製品が出ている。これは発想の転換であり、携帯電話を腕時計にしてしまおうという考えには確かに妙味がある。携帯電話が開拓したマーケットを腕時計がオセロゲームのようにすべて覆して握ると面白いが、しかし現実にはどうだろうか?
 多機能な時計は、話題にはなるが、あまり街角では見かけない。それはまだ開発途上だからだろうか? 本当に携帯電話が持つ機能と完全に融合した腕時計が登場したら一気に市場を席捲するのだろうか・・。
 少なくとも現時点では、腕時計についての市場のニーズは、価格や多機能よりもむしろデザインやあるいはブランドそのものにある。そうでなければ、へたをすると100円ショップにも腕時計がある時代に、何十万円や何百万円もする腕時計が普通に(?)売れていることは説明できない。
 技術の進歩が可能性を次々と切り開いている今だからこそ、「あれもこれも」ではなく、「あれかこれか」がもう一度問い質されてもいいのではないか。
2006年3月18日
   日はまた昇る
  若者はいつでも「今どきの若い者は」と批判される。年配者はそうやって首を振ることでアイデンティティを確保しているかのごとくだが、そうつぶやく団塊の世代も、子供のときは殴りあいの喧嘩をしたり、ゲバ棒を振るっていた人もいたはずだ。少なくとも今の子供は滅多に殴りあわないし、ゲバ棒を振るう若者などもいない。時代が違ったといえばそれまでだが、要は大差はないのだ。いつでも若者は無鉄砲で、わがままで、そしてそれが許されるのが若さの特権だ。成人式で暴れる若者もいずれ成熟して分別を持つ。
 過日、駅でちょっとした光景を目にした。
 携帯オーディオで音楽を聞きながら踊っているように歩いていた若者が改札のちょっと前で落ちていたスイカカード入りの財布を拾った。若者はちらっとそれを見ると、人波をかきわけわざわざそのまま改札の端にいた駅員のところに行き「これ、落ちてたッス」と渡したのだ。
 当然の行動だし、何でもない出来事かもしれないが、ちょっと危ないその若者の風体と行動の落差にはほほえましいものがあった。
 「今の若者は」となげこうが、批判しようが、この国の未来は若者が担う。
 日本のバブル崩壊をその著書「日はまた沈む」で予言したビル・エボット氏が過日「日はまた昇る」を出版、今度は日本の再生を予言した。
 私もそう思う。大丈夫、ラップを口ずさみながら財布を届ける若者がこの国を支える。日はまた昇るだろう。
2006年2月11日
   太郎の屋根に雪降りつむ
  関東地方に久しぶりの大雪が降った。ニュースでしか見なかった北国の大雪が目の前に広がっている。
 折しも日本経済は「ライブドアショック」に揺れている。この騒動を「所詮株式市場の問題」と片付けるわけにはいかない。株式市場に興味があろうが、なかろうが、株式市場が崩壊すれば景気回復も失速する。株式市場と景気は本来は密接にリンクする。景気の回復局面では株価は上昇するし、景気失速懸念が強まれば下落する。個々の企業も同様である。そしてそのギャップが広がったときがバブルとなる。実態以上に期待感が膨らみすぎてしまったとき、マネーゲームにおぼれてしまったとき、それはバブルと呼ばれ、崩壊を招く。悲劇を生む。
 ライブドアが生んだものもそうしたものだったのかもしれない。堀江貴文という人が与えたものはマイナスだけだったとは思わない。なかでも閉塞感に風穴を開けた功績は大きい。ある意味天才だとも思う。しかしやはり、少し地に足がついていなかったようだ。反面教師として学ぶべきところは多い。
 降りしきる雪は、まさに過熱したバブルを天が冷やしているようだ。
 三好達治の名詩が持つ凛とした世界が浮かぶ。
 「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降りつむ。次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降りつむ」
2006年1月21日
   遠い記憶
  あけましておめでとうございます。
 2005年はようやく景気回復が実感できる局面となり、電機業界各社も好調な決算が相次ぎました。こうしたなか平均株価も1年間で4割上昇、早くも「バブル再来」の声さえ聞かれます。
 2005年には、自称「一介のヒラリーマン」だった若者が衆議院議員となり、新興企業が事業規模が何倍もある大手にM&Aを仕掛けました。そんな時代の到来は、10年、いや5年前には想像さえできなかったでしょう。
 「これは誰だ?」と首をひねる人物が時代を牽引しているのです。時代は確実に動いています。タイゾウ議員やホリエモンに眉をひそめるのは自由ですが、彼らが動かしている何かを見つめることは大切です。今や「エロかっこいい」倖田來未がレコード大賞を獲る時代なのです。あのファッションに顰蹙を覚えていては時代に取り残されます。いわんや、鼻の下を伸ばしているだけなのは論外です。
 戦後60年、既に戦後が遠い過去であることは言うに及ばず、高度経済成長さえもう遠い記憶です。いやそればかりかバブルの痛みさえ既に忘れかけている感もあります。逆説的に言えば、だからこそ歴史は繰り返すのです。いい思い出も悪い思い出も時間が経てばともに遠い記憶です。ただ同じところで転ぶのは、やはり少し愚かです。遠い記憶を呼び起こしながら、2006年という時間をその時代をしっかりと胸に刻みつけていきたい、と年の初めに思いを新たにする次第です。
 今年もよろしくお願いいたします。
2006年1月1日
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