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       コラム
 
   明日のために
  ある調査によれば、起業してから1年以内で30%の会社が倒産しており、さらに起業から3年以内では半数の50%が、10年では97%までの会社が倒産すると言われている。データの信憑性は定かではないが、ともかく多くの企業が日々倒産あるいは事業閉鎖していることだけは間違いない。そして10年を超えればひと安心かというと、当然ながらそんなことはない。そんな都合のいいボーダーラインがあるわけがない。上記の調査集計にはないが、むしろ筆者の感覚では、業歴の長い会社の倒産、事業閉鎖の事例がこのところ増えている気さえしてならない。
 原因はいくつかあるだろうが、時代の変化が大きくなり、老舗企業あるいはその取り巻く業界そのものの市場規模が縮小してしまっているケースも少なくない。パチンコホール、ゲームセンター、書店、出版取次店など、かつて隆盛だったところがあっけなく倒産する背景には、市場が縮小するなかでその変化に対応できなかった企業の姿がある。時代とともにビジネスモデルが変わるのは当然で、その変化にどう対応していくかが事業継続には不可欠となっている。
 実際に、業歴が長く、今でも活況な会社は、創業時から少しずつ変化を遂げているという場合が多い。
 任天堂は花札やトランプのメーカー、ユニクロはもとはといえば山口にあった個人営業の衣料品店、ニトリは北海道の家具小売店だった。
 ともに創業時の形にこだわっていたら、現在の盛況はないだろう。いずれも巧みに事業転換しながら会社を大きくして、今や日本を代表する企業となっている。
 3社とも一気に違う業種に変わったわけではない。少しずつ変わっていき、振り返ると、同じ業態にありながら創業時から実態は大きく変わっているというところが興味深い。
2017年5月7日
   祭りの後
 オークションなどで値段がどんどん跳ね上がっていく光景を時々見かける。
 美術品などは値段があってないようなものだから、ほしい人が多ければ、それは当然のことなのだろう。しかしそこにはその場の雰囲気というか、バイヤーの意地のようなものも微妙に影響しているような気もする。
 庶民には及びもつかない感情だが「高値になってしまったなぁ」と溜息をつくことなどもあるのではないか。
 電子部品商社、ソレキアをめぐって富士通とフリージア・マクロスの佐々木会長がTOB合戦を繰り広げている。
 最初は2月3日に佐々木会長が2,800円で始めたTOBだが、富士通が3,500円で対抗的TOBを表明したあたりから熱気を帯びた。その後佐々木氏が3,700円、今度は富士通が4,000円、さらに佐々木氏が4,500円と価格を引き上げ、4月5日に富士通は5,000円にまで引き上げた。
 ソレキアは技術系だが基本は商社なのでそこまで特別な技術があるわけではない。業績面でも16年3月期は赤字だし、純資産も50億円強だ。
 さきに上場した「ほぼ日」の糸井重里社長がIPOの初値が過熱したのを振り返り「(自分たちは)そこまでの美人ではない」と言い、さすが一世を風靡したコピーライターらしい言い回しだと感心したが、ソレキアもそこまでの美人とは思えない。
 熱気を帯びたTOBが終わったとき、そこにはどんな感情が残るのだろうか。
2017年4月6日
   Why American People
 日本は不思議だ、とアメリカ出身のタレントは言うが、アメリカだって不思議だ。
 アメリカの新大統領は移民の入国を制限しているが、そもそもアメリカは移民の国だったはずだ。コロンブスまで遡る必要はないのかもしれないが、アメリカは移民が作った国じゃないのか?
 メキシコとの国境に壁を建設する? 国境すべてに? さらに壁を一方的に建設して、その費用をメキシコ側に負担させようと主張している。隣の家との境にフェンスを作り、請求書を隣の家に送りつけるという考え方は日本にはない。
 新大統領はアメリカの白人中間層の支持が多かったと言われる。彼らは移民によって自分たちの領域が荒らされていることに不満を覚えており、古きよきアメリカの普通の暮らしを守ることを望んでいるのだという分析がある。しかしそれを実現しようとしている新大統領は、普通の暮らしぶりとは対極にあるブルジョアジーの極みのように見えるが、そこに矛盾はないのか?
 アメリカは関税などで保護貿易を訴えているが、アメリカはアメリカンドリームに象徴されるような移民でも誰でもつかむことができるチャンスに満ち溢れた社会ではなかったのか? そしてそれは保護貿易とは対極にある自由競争から生まれるものではないのか?
 大声で言いたい。
 「Why American People」
2017年2月13日
   親近効果
 第一印象が大事だとよく言われるが、逆に最後の出来事が最も印象に残るという定説があり、これを親近効果という。
 2017年、平成29年という新しい年を迎えたばかりだが、2019年には新元号になる見通しとなった。
 「平成」は30年余で幕を下ろすことになる。
 「昭和」は戦争もあり、高度経済成長もあり、バブルもありと激動だったが、「平成」はどうだっただろうかと思う。
 平成となってすぐにバブルが弾け、経済としては「失われた20年」がすっぽり入っている。震災もあった。「華やかな時代だった」「活気に満ちた時代だった」と言える時期は少ないようにも思える。ひとつのターニングポイントになるかもしれない東京オリンピックも新元号で迎えることになった。
 平成の最後の月日がそれまでの30年をすべて覆うようなポジティブな時代となることを願う。
2017年1月12日
   仮想の現実
 日本経済新聞社がまとめた2016年のヒット商品番付を見ると、東の横綱が「ポケモンGO」で、西の横綱は映画「君の名は。」だった。
 ほかに、大関にはやはり映画の「シン・ゴジラ」と、人工知能の「AI」。さらに以下の番付では「リオ五輪」「VR」などが並ぶ。
 横綱クラスは別にして、ランクが下の方になると、毎年納得できない部分と、「これ何?」と思うような知らない商品もあったが、今年は全体にほぼなるほどと思えるような商品が並んだ。
 しかしそうしたなかでふと思ったのは、総じて「仮想」のものがヒット商品で並んでいるということだった。
 東の横綱は仮想空間でのゲーム、さらに西の横綱と東の大関は映画、それも現実の生活を描いたリアルな映画ではなく、ともに現実にはない状況を描いた作品だった。
 「VR」はまさに仮想空間だし、オリンピックやAIもどこかで一般庶民にとっては現実離れした世界とも言える。
 改めてそう考えると非常に奇妙な印象を受ける。
 誰もが「現実」から逃れたい深層心理があるとすれば、それこそ「哀しい現実」だ。
2016年12月11日
   まだ最悪ではない
 シェイクスピアのリア王に「これが最悪だと言えるうちは、まだ最悪ではない」という台詞がある。
 次期アメリカ大統領にドナルド・トランプ氏が決まった。最初は泡沫候補と言われ、共和党の統一候補になったことさえ奇跡と言われていたが、ついに大統領まで登り詰めてしまった。
 今後は、選挙期間中の過激な発言がどこまで実行されるかを世界中が固唾を呑んで見守ることになる。日本の電機業界や自動車業界も対策を迫られることになるかもしれないし、日本の防衛面で大きな変化が起こる可能性もある。
 思い起こせば、今年6月のイギリスのEU離脱も「想定外」だった。識者の予想も、直前の世論調査も覆し、イギリス国民はEU離脱を選んだ。
 トランプの勝利も、イギリスのEU離脱も、理由はさまざまだろうが、根底にあるのが「変化への期待」であることは言うまでもない。おそらく世界中の多くの人々が現実への閉塞感に苛まれているのだろう。
 これは危険な側面もある。閉塞感がテロを生み、戦争の火種になるからだ。そうならないように、イギリスはEU離脱、トランプが大統領になり変化が進むのなら、それはいいことかもしれない。
 後になって「終わりの始まり」だったなどとならないことを強く願う。
2016年11月14日
   倒れるか、中から腐るか
  某公的機関が弊社サイトの記事タイトルだけを統計的に集計して、電機業界における工場進出の傾向を探るリポートに引用していた。
 特にご挨拶がなかったのでいかがという思いもあるが、とりあえずそこは置くとしても興味深かった。ただその公的機関は弊社サイトの会員ではないので、一般サイトで見られるタイトルからだけの集計となっており、実態にそぐわない側面もあった。しかしそれはそれとして、ひとつの断面は確かに見えていた。
 そんなこともあり、自社サイトのなかでどのようなキーワードが多く使われているかと改めて調べてみた。
 日付とか、自社の社名とか、電機とかいうようなものを除くと、「倒産」や「破産」がやはり多く、これは弊社サイトの特徴のひとつなので当然のこととして、「参入」「撤退」というキーワードが多い結果となった。
 電機業界だけでなく産業とはそういうものだと思うが、やはり工場進出や市場参入などの一方、市場撤退や倒産があり、そういう新陳代謝とともに変化して企業は生き残っていくのだろう。逆に言えば、市場参入など新たな展開を繰り返していかないと、組織は衰退の道を辿るのかもしれない。
 豊洲移転で都庁のマンネリ体質による利権問題が言われている。新陳代謝がなくとも衰退せず生き残れるお役所という組織は、中から腐敗していくようだ。
2016年10月2日
   遠きにありて思うもの
  「角栄」ブームなのだそうである。
 田中角栄という政治家がなぜか再評価されている。
 確かに、あれだけの力を持った政治家は、いい意味でも悪い意味でも現代にはいない。その剛腕ぶりは際立っていたように思うし、あの独特のキャラクターについても「愛される」対象なのかもしれない。
 しかし、田中角栄と言うと、やはりロッキード事件という戦後最大の汚職事件の張本人であり、真相の一部が謎に包まれている部分もあり、大きな疑獄事件の中心人物であったという側面が否めない。そこを置いての「再評価」には疑問も残るが、田中角栄という政治家が不思議な魅力に溢れていたのは否定できない。
 一方「暮しの手帖」を創刊した大橋鎭子をモデルにしたドラマが高視聴率になっている。
 雑誌「暮しの手帖」は、終戦直後に創刊され、女性をターゲットに、暮しのなかで役立つ情報を提供し続けている。今なお現存しているが、やはり大きなインパクトがあったのは、戦後の物がない時代に「女性の暮し」に着目したそのスタンスだろう。
 もしかすると、今の日本人は戦後の高度経済成長時代に憧れているのかもしれない。今よりもはるかに貧しく、不便だったが、生き生きとしていたあの時代に。
 東京タワーは今日も美しい。
2016年8月20日
   雨を乞う人、怖れる人
 関東地方では記録的な雨不足が続いており、今夏はこのままだと取水制限がさらに引き上げられることが避けられない。半面、西日本では豪雨による被災などもあり、被災地では地盤が緩み、逆に雨を怖れるという逆の状況となっている。西日本の雨雲が関東に移動してくれないかと思う人は少なくないだろう。
 雨など自然現象は如何ともしがたいが、きちんとした配分がされればということは少なくない。
 自然現象の後の震災の復興資金などは、早く、的確に必要なところに渡ることが不可欠だ。企業経営も同様である。経営判断や人材の適材適所が有効に行われれば、安定的な経営維持が図れる。政治やインフラ整備も同じだが、どうも組織や利権が大きくなればなるほど、混迷を極めるようだ。公用車で別荘に通い、予算は使い切るのが原則では、有効な活用は望めるはずもない。
 日本の国債残高は1,000兆円になるのだという。有識者は国債残高というのは必ずしも国の借金ではないというが、返済義務があるお金であることは間違いない。
 不合理な資金使途が今日も回り回って国債を積み上げていく。
2016年7月11日
   言葉の重み
 広島を訪れたオバマ大統領のスピーチは素晴らしかった。17分に及ぶスピーチは、
 「今日、広島の子供達は平和な日々を生きています。 〜(中略)〜 この未来こそ、私たちが選択する未来です。未来において広島と長崎は、核戦争の夜明けではなく、私たちの道義的な目覚めの地として知られることでしょう」
 と締め括られた。名演説だったと思う。
 しかし実際にはアメリカは核保有国である。核廃絶どころか、核軍縮の動きもなかなか難しい。言葉だけではなく、今後は行動でも示していただきたいところだが、そこはまた別問題なのかもしれない。
 一方、東京都の舛添知事は政治資金を巡る一連の問題について「すべてがクロというわけではない」と語った。すべてがクロではないということは、一般市民の感覚だと「大部分が事実(クロ)である」と認めたということになるはずだが、どうも責任をとるつもりは毛頭ないようである。すべてがクロではないというのは、逆にシロがあると開き直っているのだろうか。
 日米を問わず、どうも政治家の言葉はよくわからない。
2016年6月1日
   軋る車輪
 熊本で地震が起きた。熊本には多くの半導体関連の企業などが工場進出していた。人々の日々の暮らしを確保することが最も重要な優先課題ではあるが、日本の産業界にとっては現地工場の稼働再開も重要だ。1日も早い工場の再稼働が日本の産業と現地の人々の暮らしを支えることにもなる。
 かつては「天災は忘れたころにやってくる」と言われたが、東日本大震災からわずか5年である。タイの洪水も記憶に新しい。日本だけでなく、世界中で震災や洪水のリスクは頻発している。だからこそ災害時での経験を生かしていきたい。
 人も、企業も、今どこで何が足りないかを把握することが大切である。裏返せば、困っている地域ではそれを訴える発信も重要で、それが社会全体の回復につながる。
 The squeaking wheel gets the grease
 という言葉がある。直訳すると「軋(きし)る車輪は油を差してもらえる」となる。色々な解釈あるが「困ったときには声をあげれば誰かが助けてくれる」という意味が一番素直な捉え方だ。
2016年4月25日
   痩せたソクラテス
 会社を創業してしばらく後だったから、今からおよそ10数年前だったと思うが、雑誌の編集者との打ち合わせで「日本の電機大手は多くの市場製品を手がけ過ぎているため、企業競争力が弱い」という話になり「プレイヤーが多過ぎることによる市場再編」というテーマで企画が組まれたことがあった。
 あれから10数年が経過、電機業界大手のなかで市場再編が進むという予想はほぼ当たったが、予想を超えたことが多く起きている。
 まさかあの時点では、三洋電機が表舞台から消え、シャープや東芝が今日のようなことになるとは思いもしなかった。
 自分を含めて多くの人が「大手は得意分野に経営資源を集約して、うまく棲み分けが出来ていくだろう」という楽観的な見方をしていた。
 しかし実際には、中国の成長や新興国の台頭が加速的に進み、想像を超える事態が相次いで起きてしまった。周囲の大きな変化のなかで、大手は対応に後手をとり、気がついたときにはいささか手遅れになってしまったということだろうか。
 太った豚、満足した豚になってはいけない。
2016年3月22日
   人生劇場
 「劇場型犯罪」という言葉が最初に使われたのは、定かではないが1985年のグリコ森永事件の頃からのようだ。調べてみても、それ以前にはあまりそういう表現はとられていない。
 実際には、グリコ森永事件以前にも「よど号ハイジャック事件」(1970年)や、機動隊と犯人とのにらみ合いおよび人質救出の模様が中継され、驚異的な視聴率をとった1972年の「あさま山荘事件」など、極めて「劇場的」な事件はいくつかあったのだが、グリコ森永事件以前にはまだそういうネーミングはなかったようだ。
 劇場型というネーミングがされたからというわけではないだろうが、最近の事件はますます劇場化が進んでいるような気がする。
 好感度の高かったタレントのスキャンダルはやりとりのラインが流出、元プロ野球選手の覚せい剤使用逮捕は報道陣が張り込んでいる前で行われ、シャープの資本提携はワイドショーで台湾ホンハイ側郭台銘会長の動向が生中継された。
 ラインにおける会話の流出は記憶にないし、資本提携前から買収側の社長に大手メディアが密着してそれを中継するということもあまりなかった気がする。
 世の中はどんどん劇場化しているようだ。
 その割にわたしたちは身近な人や隣人の素顔を意外に知らない。
 近くの人間より、遠くの他人の暮らしぶりをあれこれ知りたがるのはなぜだろう。
2016年2月8日
   それぞれの秋
 箱根駅伝はもはや正月の代名詞とも言える。
 2016年、年明けの箱根駅伝は青山学院大学の圧勝で終わった。
 箱根駅伝は熱烈なファンも多く、駅伝を目標にしている学生も少なくない。歴史もあり、繰り広げられたドラマも数え切れない。
 しかしなぜか一方で「箱根駅伝不要論」というのが存在している。
 その理由は、駅伝があるから真のマラソンランナーが育たないということらしい。オリンピックで活躍できるマラソンランナーがなかなか出ないのは、箱根駅伝が多くの若者の目標になっているために、そこで燃え尽きてしまうからというのだ。
その論理が正しいかどうかはともかく、いや仮にもし正しいとしても、その考え方には疑問を感じる。
 百歩譲って「駅伝の存在がオリンピックでのマラソン金メダリストの誕生を妨げている」としても、なぜそれが「駅伝不要論」につながるか、その理由がわからない。どうしてすべての競技者がオリンピックを目指さなくてはならないのだろう。これだけ日本に根付いている競技を「オリンピックのために止めるべきだ」という人の気持ちがわからない。
 人にはそれぞれの道がある。大企業を目指す人もいるだろうし、独立して起業する人もいるだろう。役者や歌手を目指す生き方もある。ものづくりや人の役に立ちたいという人生もある。人はそれぞれであり、価値観もそれぞれである。
 オリンピックが絶対的な価値観のような考え方には疑問を覚える。
 箱根駅伝で燃え尽きる若者にもその後にはそれぞれの箱根駅伝の経験を生かした人生がある。
2016年1月4日
   はやりすたり
 2015年の流行語大賞として「爆買い」と「トリプルスリー」が選ばれた。
 「トリプルスリー」というのは何? と思った人も少なくないのではないのだろうか。説明を聞いて、そう言えばそういうことがあったと思ったし、それはそれで偉業だろうが、「流行語」になったとは到底思えない。
 流行語という括りでなく、それは出来事だったと思う。また出来事というのなら、ノーベル賞の複数受賞だったり、北陸新幹線の開通であったり、ラグビーだったり、データ偽装や粉飾決算だったり、まだまだほかにいくらでも話題になったものはあった。
 一方「爆買い」は誰も文句のないところだろう。こちらは2015年を象徴している流行語だった。
 さかのぼり、過去の受賞を見ると、世相を映していて面白いものもあるが、あまり流行したとは思えないものも多い。と同時に、確かにその年には流行したと思われるのだが、今ではすっかり影を潜めているものも少なくない。
 「はやり」には必ず「すたり」があるようだ。
 2015年の間違いなく流行語だった「爆買い」はいつまで続くのか?
 どういう経緯を通じて「爆買い」は過去のものになるのか?
2015年12月7日
   巨大な電子機器マーケット
 東京モーターショーに行ってきた。
 電機業界の展示会に行くと、4Kテレビなど最新製品目当ての一般の人も来るが、多くは業界関係者で、一般の人にはあまりぴんと来ないであろう電子部品の先端製品の展示なども少なくない。しかし東京モーターショーは自動車のニューモデル展示が主体ということもあり、来場者は圧倒的に自動車やオートバイのファンなど一般人が多い。
 自動車離れが言われて久しいが、そんなこともあってモーターショーは活気に満ちており、なかなかの盛況だった。自動車の人気は根強いという印象を改めて受けた。
 そんな自動車市場は年々電機業界との接点が増えている。既にカーナビやメータなどは電子機器そのものであり、エンジン回りもリチウム電池など搭載によって電子化が進む。
 そして注目されるのは自動運転システムであり、こうしたセンシング技術となるともう完全にエレクトロニクス製品の範疇となる。
 先ごろ93歳の女性が車で高校生をはねるという事故があった。また80歳代の男性が歩行者の列に車を突っ込んでしまうという交通事故もあった。どちらも高齢化社会が抱える問題の側面と言え、高齢化が進むと今後こうした事例はどんどん深刻化するとも思われる。
 自動運転はまだまだ発展途上であり、衝突がなくなることはそれでもありえないだろうが、自動運転システムの普及は高齢化社会の事故率減少につながることは間違いないだろう。技術が進めば、ナビやETCが今や標準装備されているように、自動運転システムも標準装備される日が来るに違いない。
 そうなると自動車はもはや完全に電子機器である。
2015年11月9日
   偽装の系譜
 人が人を騙す詐欺事件はそもそも偽装から始まる。ないものをあると偽り、あるものをないと偽るのは、人を騙す始まりだ。他愛ないもので言えば、美容整形やかつらも偽装と言えば偽装である。
 偽装は個人のレベルだけではない。企業にもある。
 かつて産地の偽装が相次ぎ発覚、批判を浴びたことがあった。メーカーが中国産の食品を国産と表示、有名ホテルも食材の産地を偽った。中小企業ばかりでなく、大手食品メーカーや老舗ホテルなどの産地偽装も明らかになり、信用が損なわれたのは記憶に新しい。
 そして今度は、東芝、VW(フォルクスワーゲン)である。
 日本を代表する国際的メーカーが過去何年にもまたがり粉飾決算を重ねていたことの驚きも色褪せぬ間に、世界有数の自動車メーカーの偽装ソフトが発覚した。決算の粉飾も相当ひどい話だが、あらかじめ排出ガスの数値を下げるソフトを販売車に組み込んでいたとなると、これはもう個人や会社の部署の問題ではなく、会社ぐるみの悪質な犯罪と言わざるをえない。
 どうやら現代は、個人、企業、そして国際的に知名度が高い大手企業まで、ことごとく偽装している時代のようだ。
 こうなると次は国家の偽装が明らかになるのかもしれない。といっても法案通過などはもともと偽装の上に成り立っているのだが・・・。
 マイナンバー制度が始まる。偽装を正す制度の始まりが偽装に満ちているのは矛盾だ。
2015年10月5日
   ボディブロー
 一度転ぶと自転車にうまく乗れなくなる。人は失敗すると、またうまくいかないのではないか、という思いがどこかで残り、続けて失敗するということがよくある。スポーツでいう「勝ち癖」とか「負け癖」とかいうのも同じだろう。
 その話とは少し違う気もするが、株式投資で不安心理から売りが加速するというのも、通じるところはある。
 下落場面でも強気で買い戻す人が多ければ株式相場に大崩れはないが、一度痛い目に遭うと、小さな下落場面でも不安心理が勝り、売りが加速してしまう。
 バブル崩壊の後、株価がなかなかあの頃の水準まで戻らないのは、投資家が痛みを知ってしまったことが大きい。
 8月の下旬、日本市場をはじめとする世界市場で株式が乱高下した。市場はいったん落ち着いたが、先行きは不透明だ。
 世界的な景気後退感を示すデータに事欠かないのは確かだ。しかし本当に問題なのは、中国人投資家が景気の後退懸念や株式市場の下落を知ってしまったことかもしれない。爆買いをする中国人個人投資家がいったん痛みを覚えてしまったことは、この先、ボディブローのような形で、株式市況だけでなく景気にも響いてくる可能性がある。
2015年9月1日
   青年は荒野を目指す
 過日、犬用のベビーカーを目にした。
 正確には、ベビーカーというより歩行が困難になった老犬用で、まだ歩けない犬用ではなく、もう歩けない犬の介護用に開発されたものだった。
 製造したのは誰でも知っているベビーカーの大手メーカーだった。
 調べてみるとそのメーカーには、様々な用途の製品があった。形状や用途もだが、価格帯も様々なものを取り揃えていた。なかには某有名スポーツカーメーカーとコラボしてそのエンブレムをつけた数万円の製品もあった。その価格は、デザイン、速さ、乗り心地についている値段ではない。スポーツカーなら数千万円というそのブランドだけについている値段だと思える。これが結構売れているらしい。
 企業は、絶えず新しいものを創りながら、変わっていくものだ。変わらないものに憧れる気持ちもあるが、しかし変わらないものに人が憧れるのは、それだけ多くのものが変わっているという裏返しでもある。企業は憧れではなく、人が生きていく器である以上、変わり続けるのは当然だろう。
 だから企業は事業展開に絶え間なくチャレンジすべきだ。人もまた同様である。お笑い芸人が芥川賞を獲れる時代である。人も企業も可能性は無限だし、選択肢も多様に広がっている。逆に言えば、広がり過ぎていて選ぶのが難しいほどだ。
 そう思うと、この新宿の大都会も未開の荒野に見える。
2015年8月10日
   大人は判ってくれない
 フランソワ・トリュフォーの映画「大人は判ってくれない」では、社会のなかで成熟しきれない子供の感性が瑞々しく描かれている。どう受け止めるかは見る側次第だが、大人社会の価値観と、子供の感性の対比という構図が作品のテーマだ。
 最近「言論の自由」について考えさせられる出来事が続いている。
 ひとつは97年に神戸で起きた殺人犯の出版騒動。少年Aの手記出版である。遺族感情という論理もだが、そもそも殺人犯がその殺人を語るという行為さえ規制なく自由に行われていいのかという問題はある。
 議論の末に「サムの息子法」を制定したアメリカの事例は参考になるが、決定的な解決になるとは思えない。手記の印税という問題以前に、遺族としては出版そのものが許しがたいのではないかという気がする。
 さらにもうひとつ、作家の百田尚樹氏が自民党の勉強会で「沖縄のふたつの新聞は潰さないといけない」と発言、それに自民党議員が「広告収入に圧力をかけてはどうか」という趣旨の発言をしたというニュースもあった。
 どこまでが本当かはわからない。よくある話だが、前後の脈略を省くと誤解される発言もある。ただ自民党議員の同調意見の方は「反対意見には圧力をかけて言論の自由を奪えばいい」という思想が見え隠れして、心地よくない。何を言うかは個人の自由だが、権力にいる側がそれをちらつかせて発言するのは精神的に子供だと言わざるをえない。
 発言をする側が成熟していないのか、社会がまだ成熟していないのか、皆が「大人は判ってくれない」とつぶやいているようだ。
2015年7月5日
   隣は何をする人ぞ
 ニュースで監視カメラの映像が流れることがある。以前なら逮捕できなかった路上犯罪の検挙にも有効なようだ。半面、街を歩く容疑者の連続した映像などを見ると、いたるところにカメラが張り巡らせているとわかる。監視されている感が否めない。
 今秋からはマイナンバー制度も施行される。「社会保障など利便性の向上を図る」というが、国民と法人のすべてに番号を振り当て、所得や税金などを管理していこうという狙いは、人と組織の動きを監視していこうという思惑以外の何物でもない。
 一方、カードの普及も進む。「ポイントがつくので得だから」という理由で、わたしもコンビニではカードを出す。「マイブーム」で時折同じ商品を定期的に買い続けるが、飽きるとほかのものを今度は買い始めることもよくある。ビッグデータのなかではそんなことも見知らぬ人にはわかってしまうのだろう。
 これらのすべてが一元管理されるリスク、かつ悪意を持った組織がビッグデータにハッキングするリスクなどはないのだろうか?
 別にわたしがどこをふらふらと歩き、どのくらいの金を持っていて、それでどんな「お気に入り」を買い続けているかなど誰も興味はないと思うが、そういう管理社会が好ましいとは到底思えない。
 ちなみに今のわたしのマイブームはコンビニのオリジナルコーヒーですが、なにか?
2015年6月1日
   夏、来にけらし
 5月になって急に暑くなり、30度に近い気温の日々が続く。
 思えば、今年はほとんど春というものがなかったような気がする。冬から一気に夏になってしまったようだ。
 「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」という百人一首の歌がある。
 春が過ぎて夏がやって来たということを、白い衣が干してある香具山を見て感じるという意味で、作者は持統天皇である。
 体感ではなく、風景の変化によって、いつの間にか季節が変わっていたことを知るという独特の世界観は、日本的な美意識なような気がする。
 ちなみに「夏来にけらし」は「夏来たるらし」と書かれているものもあり、これは万葉がなで書かれた原文を後世の詠み人によって分かれているということのようだ。
 百人一首では「夏来にけらし」(なつきにけらし)だが、万葉集では「夏来るらし」(なつきたるらし)となっている。文法的には「夏来にけらし」は「夏が来たらしい」という意味だが、「夏来るらし」は「夏が来るらしい」となる。
 詠み方で風情は大きく変わるが、そこもまた味わいだろう。しかしいずれにしても、コートからいきなり半袖に移ってしまう季節感のなかではこうした美意識は希薄になる。季節が移ろう間もなく変わってしまうのは残念だ。
2015年5月5日
   20年後の銀座
 かつては銀座という街にはやはりそれなりの「格」があった。
 今はなくなってしまった並木座という名画座の映画館があった頃から、銀座には行く機会があったが、並木座で映画を観ても、敷居が高くて食事はほかのところでしていた。銀座で食事をするのは10年早いと思いながら何十年も過ぎた気がする。
 その後は銀座で普通に食事をするようになったが、それは自分の格が上がったからでは決してなく、銀座の方が格を落としてきたからのように思う。
 そして今ではその銀座も、免税店が並び、デパートでは中国語のアナウンスが流れる。
 もちろんそれは時代の流れである。
 考えてみれば、高度経済成長時代には、日本も海外のほかの街で同じ状況だった。ニューヨークのロックフェラーセンターを日本企業が買収したのはその大きな象徴だった。それは1989年、バブル絶頂期の出来事で、日本に対しては、礼賛よりも、皮肉まじりの「エコノミックアニマル」というありがたくない称号が与えられていた時代だった。しかしその後日本はバブルが弾け、ロックフェラーセンターも売却される。
 あれからもう20年が経過している。
 ニューヨークは今でも世界の情報発信地であり続けている。そして街中には、日本食のレストランが溢れている。改めて日本は、日本の文化は、きちんと欧米に評価されている。
 そう考えると銀座という街が真の評価をされるのはまだまだ先のことだろう。言うまでもなく、中国の評価も。
2015年4月6日
   365分の1
 「この味がいいね」と君が言ったから7月6日はサラダ記念日
 というのはともかく、一年は記念日で満ちている。
 耳の日(3月3日)、鼻の日(8月7日)というのはいかにもわかりやすいが、由来を聞かないとなぜその日になったのか、わかりにくいものも少なくない。
 ちなみに2月22日という日は結構制定されている日が多い。
 2(にゃん)、2(にゃん)、2(にゃん)で猫の日、2(ふー)、2(ふー)、2(ふー)でおでんの日というのはともに苦笑いだが、なかにはウィットに富んだものもいくつかある。
 ひとつは禁煙の日。これは2という数字が白鳥に見えることから「吸わん(スワン)」の語呂合わせである。
 また毎月22日はショートケーキの日でもある。これはなぜかと言うと、カレンダーを見るとわかる。上に15日が来ているからで、上に15(いちご)が乗っているというシャレである。
 あとはどうでもいい話だが自分の誕生日でもある。
 まあ何にしても365日のなかの1日でしかない。
2015年2月22日
   日はまた昇る
 空気が変わってきたな、という印象はある。
 パナソニック、キャノン、シャープ、TDK、オムロンなど多くのメーカーが生産の国内回帰の動きを強めている。海外で生産するより、国内での生産によりメリットがあるという考えが生まれ始めていることは、国内雇用の増加などを考えると悪いことではない。
 かつては、国内中小企業に取材すると、例外なく販売先の大手メーカーの海外生産移管による国内空洞化が深刻な問題として提議されていた。そしてあの時点では、この海外生産移管の流れを食い止めることはもはや困難と思われていた。国内空洞化という大きな問題の出口は誰も見いだせないという認識があった
 しかし意外にあっさりと転機は訪れている。
 まだ海外進出がメーカーの重要なテーマであることは変わりないが、国内空洞化という大きな社会問題は徐々に薄れており、国内生産も選択肢のひとつになっていることは間違いない。
 時間は少しずつ動いているのだが、振り返ると局面は大きく動いていることに改めて気付く。
 要因はひとつではないだろう。最大の生産移管先だった中国を例にとると、人件費など現地コストの増加があり、さらに反日感情などによる工場オペレーションの難しさがあり、そして何よりも円安の進行が大きい。
 ひとつひとつ考えればいずれも想定の範囲内のことなのだが、国内空洞化が議論されていたとき、正確にこれらが複合的に寄与して事態を変えうるということを予測していた人は圧倒的に少なかったと思う。
 「楽観的」と揶揄されるかもしれないが、どんな困難な問題もやがて解決策は見いだせるということを改めて思った。
2015年1月26日
   10年先の稽古
 あけましておめでとうございます。
 新しい年、2015年が始まりました。年末には、週刊誌やテレビも1年の回顧として、2014年を総括していた。毎年のことであるが、年末年始はひとつの区切りとなる。
 ややもすると日々流されていくなかで、改めて振り返る機会があることは、それはそれでとてもいいことだ。ただ1年というスパンではなかなか結果が出ないことも世の中には少なくない。
 大相撲の世界では「3年先の稽古」という言葉があるらしい。今の稽古は3年先に実るということだろう。逆に言えば、すぐに結果を求めていない姿勢がその言葉からは読み取れる。
 年末は1年の締めくくりだが、そこで総括しきれない途上のことも本当は少なくない。しかし現実には、すぐに結果を求めないという姿勢はなかなか難しい。特に企業においては、1年ごとの決算で評価されることもあり、また3年先には組織が変わる可能性もあり、腰を据えたことがしにくいという土壌もある。
 1年で区切りをつける習慣は大切だが、1年で決算書や通知簿のように結果が出ることだけがすべてではない。3年先の稽古をすることも企業にとっては必要なことである。
 話は変わるが、弊社は昨年末に創業10周年を迎え、今年は11年目となった。創業時にはゼロからのスタートだったが、毎年少しずつ会社を大きくすることができた。1年後だけでなく、さらに10年後の創業20周年をどういう形で迎えるかを考えながら、今年も毎日を歩いていきたいと思う。
 購読者の皆様、本年も何卒よろしくお願いいたします。
2015年1月1日
   背中(せな)で泣いてる民主主義
 俳優の高倉健さんが亡くなった。
 高倉健をスターダムに押し上げたのは任侠映画である。
 任侠映画が圧倒的支持を得たのは、絶対的な権力というものがそこにあったからだろう。権力側の横暴な姿は、庶民という弱者の対極にあった。言わばその権力者というヒールに対して、最後には自らの存在を賭してまで無謀な戦いを挑むというのが高倉健扮する主人公だった。
 折しも世の中は学生運動のまっただなかで、多くの学生がスクリーンの高倉健の姿に共感を覚えた。そういう時代だった。「背中(せな)で泣いてる唐獅子牡丹」をもじり、「背中のイチョウが泣いている」という東大学園祭のキャッチコピーとポスターが生まれたのは単なるパロディではない。そういう時代背景と共感(シンパシー)があったからこそである。
 しかし学生運動の時代が大きな挫折感とともに終息したことで、それに呼応するように任侠映画も終わる。
 同時に「権力に戦いを挑む」という構図も失われ、その後日本は高度経済成長に本格的に入った。日本が経済成長を遂げたことで、「権力に挑む」という構図そのものが否定された感さえ否めない。
 しかし任侠映画以降も高倉健は体制に属さない、どこかで体制からはみ出した男を演じ続けた。最早、かつてのように権力者に戦いを挑むことはなかったが、最後まで体制側ではない人を演じ続けて、逝った。合掌。
 その高倉健死亡のニュースの当日、今なら勝てるというご都合主義の理由だけで衆議院が解散した。
2014年11月24日
   明日があるさ
 青色LEDを開発した日本人3人がノーベル物理学賞を受賞した。
 青色LEDの開発により、既存の赤、緑と合わせて白色を実現、LEDは飛躍的に普及した。白熱電球の時代からLEDの時代へと移行したわけで、青色LED開発の意義は大きい。
 青色LED自体は奇抜なアイディアでは決してなく、青色LEDがあればLEDが加速的に普及することは十二分に予測できた。このため世界中の多くの科学者が開発に取り組んできたが、それを日本人が実現したことは誇らしい。
 一方、先に発売されたアイフォン6では、人気の高さから販売店のフィーバーや密輸が話題になった。
 アイフォンは米国メーカー製だが、内部には多くの日本製電子部品が搭載されていることも改めて確認され、注目された。最先端の機器はまだまだ日本の部品メーカーが支えている。
 しかし、やはりなぜスマホのトップメーカーは日本企業ではないのか・・という思いは拭えない。数えきれないほどこのことは議論されてきたことだが、青色LEDに象徴される世界屈指の技術力や、世界中が認める繊細さを日本は持つものの、まだ何かが足りないのだろう。
 料理でも、本でも、映画でも、あるいは人物でも、何かが足りないと思うことは多い。しかし考えてみれば、所詮世の中は少しずつ何かが足りないもので満ち溢れているのかもしれない。足りないからこそ、成長して、進歩するのだろう。そう考えると、日本もまだまだこれからだ。
 他人のことは言えない。自分も何かが足りないことは間違いない。でも何かが足りないからこそ、明日があるのだと思う。
2014年10月14日
   痛みを忘れる知恵と愚かさ
 「出産のときの痛みは気を失うほどだけど、赤ちゃんが生まれた瞬間にその痛みから解放されるので、また産もうという気になれる」
 という話を聞いたことがある。
 耐えがたい痛みも、多くの場合は徐々に薄れ、いつかはその痛みも消える日が来る。そして痛みの記憶は、日を追って薄れていく。やがては痛かったという記憶さえ遠い過去のものとなる。
 「喉元過ぎれば熱さも忘れる」ということだろう。すべての痛みは時間が解決してくれる。
 良い悪いではなく、それはやはり人間の性(さが)だと思う。
 所詮、人間は忘れる動物である。逆に言えば、だから生きていけるのだ。痛みやつらかったことをいつまでも覚えていては前に進めない。それはある意味では自然界の摂理なのだろう。
 しかし、それにしても早過ぎないか、とは思う。
 鹿児島の川内原発が再稼働しそうだ。メディアがデング熱や豪雨、錦織を報道している隙に、とは言わないが、原発再稼働はまだ大きな話題にさえなっていない。
 福島ではこれから先10年単位でまだまだ除染活動が続き、故郷を失った人々の痛みは続いているのに、ともかく川内原発は再稼働という流れになりつつある。
 痛みは忘れられてしまったのだろうか?
2014年9月14日
   一生の不覚
  「8月15日は何の日ですか?」という問いに答えられない小学生のインタビューを見た。その小学生は「日本は第二次世界大戦でどこの国と戦いましたか?」という質問にも答えられなかった。しかしこれは特殊なケースでは決してなく、今の小学生は戦争があったことはかすかに知っている程度で、相手国などその詳細は知らない子の方がむしろ多いそうだ。
 かつて「戦争を知らない子供たち」という歌があった。自分も戦争を知らない世代だが、それは戦争体験を知らずに育ったという意味であり、戦争そのものを知らないわけではない。
 しかし、もはや今の子供は、日本が戦争をしたことさえ知らない世代なのだ。
 こうしたなか、安倍首相は集団的自衛権を持つことは戦争の抑止力につながると説明して、実施を目指している。かつて太平洋戦争の際にも、時の首脳は日独伊三国軍事同盟の締結は戦争の抑止力につながると説明していた。結果は言うまでもない。三国軍事同盟はむしろ戦争の引き金となった。
 民主党の海江田代表はこのことを安倍首相に問い質したが、1940年前後のときと現在とでは状況がまるで違うとして、議論は噛み合わなかった。海江田氏の方が逆に認識不足と嘲笑された感すらあった。
 確かに状況は違うだろう。日米同盟の強化と、当時独裁国家だったドイツやイタリアとの同盟は意味合いが異なる。いやそれ以前に、世界は急速に狭くなっており、世界中で既に国家や民族は入り混じっている。兵器の進化により戦争の持つ重みも違う。
 しかしたとえそうであっても、「抑止力になる」と言われて戦争に一歩踏み出す状況は同じだと思う。
 戦争の記憶が遠くなり、同じことが繰り返されるとしたら、それは愚かでしかない。
 太平洋戦争のときに「抑止力につながる」として三国軍事同盟の締結に奔走したのは当時の外務大臣松岡洋右である。松岡は後年、この三国軍事同盟の締結を「一生の不覚」と総括した。松岡は山口県の出身で、安倍首相とは遠い親戚にあたる。
2014年8月18日
   オンリーワン
 経営が悪化した旅館やホテルを買収しては再生している星野リゾートの特集をテレビで見た。
 代表の星野佳路氏の手腕は今さら言うまでもないが、運営するホテルのコンセプトにはやはり興味深いものがあった。
 星野リゾートは、すべての施設がそうではないのかもしれないが、基本は旅館だが、部屋はふとんを敷く形ではなく、ベッドを置く。また食事は部屋ではなく、個室あるいは半個室のレストランスペースで提供する。
 食事は厨房のそばで効率的に提供し、部屋はゆっくりと安らぐ空間にするというのは合理的である。ホテルで守られるプライバシーと、日本旅館のホスピタリティをうまく融合している印象が強い。部屋や建物の内部も、単に高名なデザイナーに依存するのではなく、宿泊地の地域の特徴を生かした装飾が工夫されており、その特徴がまた個性となっている。
 その星野リゾートは、2016年開業予定で、東京大手町に高級温泉旅館を建設する予定もある。目指しているのは旅館的なホテルで、玄関では客に靴をぬいで、日本式のホスピタリティを提供するという。ターゲットは外国人観光客であり、彼らが求めているのは、西洋式のホテルスタイルのなかにも、日本の「おもてなし」であるという信念に基づく。
 いいものを残し、スタイルにこだわらず、自分たちにしかできないことを考える。
 星野リゾートの手法は、業界に関わらず、全般的な企業経営に通じるものがある。
 いや企業経営だけでなく、人が生きるということも結局はそういうことなのだろうと思う。
 しかしなぜか人は「同じ」になりたがる。今年の流行色なるものが存在するし、おしゃれに敏感な人ほど結局は同じような服を着て、同じようなバッグを持つ。また若者は卒業となれば一様にリクルートスーツに身を包む。カラオケでは「ナンバーワンでなくオンリーワン」と口ずさむのだが、実際には横並びである。
 しかし勝者はやはり「オンリーワン」なのだろうと思う。
2014年7月22日
   新時代への危惧
 新しい時代が来ることを予感させる出来事があった。
 過日、3Dプリンタで拳銃をつくり、射撃を実演しているところをインターネットの動画サイトに投稿、逮捕された青年がいた。
 拳銃の設計図がダウンロードできるということも驚きなのだが、そうした設計図があれば、3Dプリンタで拳銃が素人にも作れるという事実は衝撃だった。正確に言えば、拳銃が作れるという事実が衝撃だったというより、3Dプリンタで拳銃さえ作れてしまうという事実に対して「既に時代はそこまで来ているのだ」と改めて思った。
 3Dプリンタは、精度はともかく、安ければ1万円程度のものもあり、数万円もあればそれなりのものが購入できる。量販店には普通に3Dプリンタの販売コーナーもあり、誰でも気軽に購入することができる。
 業界の人間として自分が強く危惧するのは、これまで多くのニーズがあった部品や完成品の試作、モデリングなどの仕事が、3Dプリンタの登場と普及によって、もはや専業メーカーが位置する市場ではなくなったということだ。
 電機業界においては、多くの中小企業が金型を製造したり、あるいは試作品のための部品製造に関わっているが、3Dプリンタの普及によってそのニーズが相当数奪われることはほぼ間違いない。
 自慢げにインターネットの動画サイトに射撃シーンを投稿した銃マニアの男はどうでもいい。
 しかし彼の逮捕によって、産業構造の変化がそこまで来ていることを、改めて思い知らされたことは重要である。
2014年6月14日
   現実と空想の閾
 小説であれ、映画であれ、あるいは漫画であれ、近未来を描いたもので、実際にその通りになっているものと想像の域を出ていないものがある。
 HGウェルズの「タイムマシン」は誰でも一度は夢見た世界だと思うが、やはりそれはいつまで経ってもSFの世界だ。しかしジョージ・オーウェルの「1984」で描かれた監視カメラなどで高度に制御された世界は、もはやかなり現実のものとなっている。ドラえもんの「タケコプター」はともかく、「どこでもドア」は永遠に憧れだろうが、初期に登場する携帯型のゲーム機・カメラはスマホそのものである。
 今やスマホは誰もが持ち、街角でも、電車でも覗き込んでいる。レストランでも、ひとまず皆スマホで写真をとる。スマホ的な機器の登場は予測されていたかもしれないが、ここまで、どこでもいつでも皆がスマホを手にして生活している状況までリアルに描いた作家はいただろうか。
 現実は想像の世界をさらに超えていると思える。
 ちなみに2014年はウエアラブル端末が本格投入された年として記憶されるという主張がある。
メガネ型の機器については、まずは工場の製造現場などBtoBから浸透すると思えるが、BtoCでスマホに置き変わる時代も遠からず来るかもしれない。
 そのときは、これまでのSF小説にもなかったような、誰もが現実の空間とは別に、もうひとつの情報空間を目の前に広げているのかもしれない。同じ空間にいながら、実際には皆がスマホの小さな画面を覗き込んでいるように、同じ街にいながらそれぞれが別の風景を見ているというような世界が来るのかもしれない。
 現実と空想、想像と創造は、閾がますますなくなっている。
2014年5月7日
   メーカーがつくる市場ニーズ
 二本足で音楽を聴いていた猿がすべての始まりだった。
 広告も斬新だったが、あの時点で音楽を持ち歩くという発想は市場ニーズにはなかった。製品が新しい市場を生んだ。
 よく「ニーズに対応する」という言い方をするが、本当のニーズはメーカー側がつくるものだ。
 音楽を持ち歩くという新しい提案がそれまでなかった市場を創出した。
 一方現時点でのメーカー各社の注力製品を見ても、3Dテレビも、4Kテレビも、LED照明も、さほど大きなインパクトがあるとは思えない。
 唯一、新たな市場として注目されるのはウエアラブル端末か。
 そのウエアラブル端末は、腕時計型に続き、2014年にはメガネタイプが市場投入される見通しとなっている。
 小型のコンピュータ機能とスマート家電の技術が融合され、スケジュールの管理から都市情報まで詰め込んだ端末機器は、確かに新しいニーズの創出を予感させる。
 しかし忘れてはならない。前述した二本足の猿が聞いていたウォークマンは既に市場にはないということを。
 ウォークマンが切り開いたポータブル音楽プレーヤという考え方は、その後アメリカのメーカーが進化させ、今ではスマホがその需要を継承している。しかしそのスマホにおいては、世界市場のなかで国内メーカーは置き去りという状態となっている。
 ウエアラブル端末では、日本勢が二番手以降から巻き返すことに期待したい。
2014年4月7日
   敗れざる者たち
 ソチオリンピックが終わった。
 メダリストに注目が集まるが、多くの人の胸に刻まれたのは、メダルをとれなかった3人の女性アスリートだろう。
 直前の世界大会で優勝を重ね、金メダル確実と言われながら4位に終わった高梨沙羅。
 5度目のオリンピックで、これまで1個ずつ順位をあげながら今回も4位に終わった上村愛子。
 そしてショートプログラムで16位に沈みながら、完璧なフリーの演技で6位まで順位をあげた浅田真央。
 3人ともメダルには手が届かなかったが、むしろそれだけに印象に残った。メダルとの差はおそらく紙一重だったと思う。運にも恵まれなかったし、またジャッジに泣かされた部分もあっただろう。しかし3人ともそうしたことをまったく言い訳にしていない点はさすがである。
 毎日努力を重ねながら、あと一歩のところでメダルに届かなかったその無念は図りしれない。オリンピックがすべてではないと思うが、彼女らは生活のほぼすべてをおそらくその時のために捧げていたと思う。そう考えると、やはり高梨沙羅の涙や、上村愛子の泣き真似をする仕草、そして浅田真央のフリーの後の達成感の涙は、とてつもなく奥が深い。それと比べると、無神経な政治家の揶揄はいかにも軽はずみだ。
 3人のなかには、「次」を目指す人も、目指さない人もいるだろう。いずれにしても今回のオリンピックはひとまず終わった。そして彼女たちは決して敗者ではなかった。
 沢木耕太郎氏の名著のタイトル「敗れざる者たち」という言葉を思い出される。いやそもそも、オリンピックに敗者はいないのだろうと思う。
2014年3月3日
   藪の中
  「聴覚を失った現代のベートーベン」と話題だった佐村河内守氏の事件については、考えさせられる点が多い。
 ゴーストライターが存在していたという点については、当事者以外はわからなかっただろう。しかし聴覚がどこまで失われていたのかという点まで怪しかったとなると、取材した人達が本当に誰も気づかなかったのかという疑問は残る。
 インタビューなどを見ると実に淀みない。手話の人もいただろうし、唇の動きなどを読み取っていた点もあっただろうが、取材した人間は「本当にまったく聞こえていないのか?」「そもそもまったく聞こえないで作曲ができるのか?」と疑問に思う瞬間はなかったのだろうか?
 数10分のインタビューならまだしも、ドキュメンタリー番組などを長期にわたって取材したスタッフもまったくわからなかったのだろうか?
 佐村河内守氏本人が「聴覚を失った現代のベートーベン」になりたかったというよりは、取材した側も彼がそうであってほしいという先入観があったのではないのだろうか、という気もする。
 一方、佐村河内守氏のゴーストライターとして作曲を続けてきた桐朋学園大非常勤講師については「悪い人には見えない」とインターネット上で同情の声が寄せられていた。
 その声に賛同するかどうかは人それぞれだと思うが、そうしたことも含めて、今度の事件には多くの裏の見方が存在することは確かだ。
 悪い人には見えない人は確信犯として嘘に加担していた。聴覚を失った作曲家が実は作曲などしてなく、聴覚さえあったのかもしれない。そしてそれを取材した人々もすべてを気づいていた可能性もある。すべては藪の中である。
2014年2月10日
   遠い記憶
 新しい年になった。年末年始にはやはり特別な思いがある。
 年末には1年を回顧する番組が多くあったが、既に「そんなこともあったな」という出来事もいくつかあった。そのときは確かに熱狂したのだろうが、そうした数々のことも、月日が流れてしまえば所詮は遠い記憶でしかない。
 2014年は久しぶりに景気回復感のなかで迎える正月となったが、実感は乏しいというところが多くの人の本音なのかもしれない。
 しかし実感があろうと、乏しかろうと、あるいはたとえまったくなかったとしても、ともかく月日は過ぎる。
 そして寒さが緩み、春を実感するようになる4月には消費税も上がる。5%から8%というこの3%にどの程度のダメージがあるのかはわからないが、経済的には消費税増税をどう乗り切るかはこの国の向こう10年を決めると言っても過言ではない。
 3月までの駆け込み需要に浮かれることなく、また4月以降の反動に必要以上にネガティブになることもなく、トータルで2014年は失われた歳月を少しでも埋める1年であってほしいと思う。
 過ぎてしまえばすべて過去は遠い記憶でしかない。ならば一歩でも前進した年であってほしい。
 弊社は今年10年目となった。読者の皆様のおかげで、この10年間毎年成長を続けることができた。本当にありがとうございます。
 しかし遠い記憶は胸にしまい、今年も一歩前進を目指したいと思う。
 2014年もよろしくお願いいたします。
2014年1月2日
   賞味期限内にお召し上がりください
 「あまちゃん」はいつも楽しみに見ていたが、「ごちそうさん」はたまにしか見ていない。ただ視聴率は「ごちそうさん」もかなりいいようだ。日本人はもともとああいう、いじめのなかでたくましく生きるというような世界を傍観するのが好きなのだろうか、と思う。
 最近の週刊誌をみていると、ほぼ毎週、みのもんた氏や猪瀬知事の糾弾記事で埋まっている。
 猪瀬知事は、自分のなかでは今でも優れたノンフィクション作家で、それ以上でもそれ以下でもない。それは副都知事のときもそうだったし、都知事になってからも、またオリンピックの招致を果たしてからも変わらなかった。
 だからなおさら今回の5,000万円の借用発覚にはがっかりしたが、それでもやはり週刊誌の執拗な追及には違和感がある。
 無論追及はされるべきだが、週刊誌がむしろ批判すべきだったのは秘密保護法案のおざなり審議での通過で、そこを看過して、連日みのもんた氏や猪瀬知事のプライベートや性格まで含めてのバッシングで紙面を埋め尽くすというのは、いささか心地よくない。しかし週刊誌が毎週そうした記事を組むということは、結局それが売れるからなのだろう。
 ごちそうさんの小姑のいじめはやがてハッピーエンドになるのだろうが、みのもんた氏や猪瀬知事へのバッシングにはなかなか出口が見えない。おふたりが逞しく生きるのをひそかに応援するというスタンスとも到底思えないし、どこが出口になるのだろうか。
 まあいずれにしても75日も経てば次のマスコミターゲットはちゃんと登場するので、出口は多分必要なく、そこには賞味期限だけがあるのだろうと思う。
2013年12月16日
   ステートスとは
 今年も東京モーターショーが開催された。
 出展されている自動車を見ると、近未来を想像させるものが少なくない。自動運転もだが、ナビも進化しており、やはり自動車と電子機器は時代の先端を行っているし、行くべきだと改めて痛感する。
 しかしその自動車業界で今一番危機感を持たれているのが若者の自動車離れである。
 かつてはカッコイイ車を持つというのは憧れであり、ステータスだったが、どうも今はそういう価値観も薄れているようだ。
 車がステータスでなくなったということもあるが、どうもステータスという価値観そのものがなくなってきている気がする。
 「カッコイイ車に乗りたい」「女の子にモテタイ」「成功したい」
 かつてはそういう気持ちを漲らせているのが若者の普通の姿だったが、今はそういう野心のある男子はむしろマイノリティで、そうした向上心はややもすると「なんか重い、ウザイ」とか言われかねない。
 若い女性の憧れも三高(高学歴、高収入、高身長)ではなく、三平(平穏な性格、平均的な年収、平凡な外見)の時代である。現代の若者の望みは、男性も女性も、周囲が憧れるような暮らしをすることではなく、隣人と同じような暮らしをして、つつがなく生きるということなのだろうか。
 結果的に平凡になってしまうのは仕方がない。しかし最初から平凡を目指すというのは少し違う気がするのだが・・・。
2013年11月25日
   希望の遺伝子
 遺伝子の研究が進んでいる。
 米国の女優、アンジョリーナ・ジョリーが乳がんリスクのある遺伝子を持つことから乳房を切除したのは記憶に新しい。
 乳がんリスクが87%という、その数値の信憑性はわからないが、将来高い確率で起こりうる危機を回避できたとするなら、それは遺伝子研究のひとつの成果であることは間違いない。過剰反応かどうかは本人の判断なので周囲がとやかく言えることではない。
 今のところは金持ちの特権だが、研究成果を正しいとするならば、ガンは治す治療とともに、回避する治療も可能な時代になったということになる。
 ところで疾患に関する遺伝子には、疾患を引き起こす遺伝子ともうひとつ、疾患を抑止する遺伝子が存在しているそうだ。この疾患を抑止する遺伝子は、誰が名づけたのか「希望の遺伝子」と呼ばれている。
 現代の遺伝子研究は、疾患を引き起こす遺伝子の解明の方が先行している。
 これは疾患を引き起こす遺伝子を見つける方が疾患を防ぐのには手っ取り早いという事情もあるだろうし、やはり研究には資金が必要で、疾患を引き起こす遺伝子の方がビジネスに直結しているという背景もあるのだろう。
 考えてみれば、我々が生きているこの社会も、疾患を引き起こす遺伝子を見つけて、隔離することに忙殺されている気がする。
 悪い因子を見つけることばかりでなく、研究現場も、社会も、「希望の遺伝子」がすべての問題を解決するかもしれない、という発想がもう少しあってもよいのではないか。
2013年10月12日
   共同幻想
 わきたつ気持ちがある。
 東京にオリンピックが来る。
 正直、これまでは「もっとやることがあるのではないか」という気持ちの方が強く、積極的に五輪開催を応援する気持ちにはなりにくかったが、いざ決定のニュースには、やはり強い高揚感があった。
 原発の汚染水問題を含めて震災からの復興はまだ終わっていない。しかし国際社会のなかで、これからは以前よりも一層注目度は高く、きちんとした処理がシビアに求められる。オリンピックの招致がそうしたいいきっかけになれば、という見方もできる。
 ほかにも日本は国内外で問題が山積しているのは事実だ。しかしそうした問題よりも、招致決定のときに多くの人に宿った明るい気持ちの方が大切だと今は思う。
 共同幻想かもしれないが、前の東京オリンピックのときのような前向きな気持ちを人々が少しでも持つことができれば、それはそれで素晴らしいことだと思う。
 2020年、我々はどのような気持ちでオリンピックを迎えることができるのだろうか?
 東京でオリンピックが開かれるその時に、どのような生活をしているか、それを楽しみに、わきたつような気持ちで向こう7年間を走り続けたいと素直に思う。そして多くの人がそれぞれにそういう思いを持つことこそが自国開催の意義だと思う。
2013年9月9日
   祭りの後の静けさ
 それが演出だ、と言われればそれまでだが、テレビのバラエティ番組などを見ていると、どうも「出来レース」と感じることがある。
 タレントが激怒してみせる。どうなるのか、とハラハラして見ていると、最後は丸く収まる。騒いだ分だけ最後の静寂は空虚だ。
 今は規制が厳しくなっているが(少なくとも表面上は)、昔は談合、入札、八百長、役員選挙など、随分と出来レースが多かった。多少誇張すれば、出来レースをどう本物らしく見せるかが、政治やビジネスだったようなところさえあった。高度経済成長時代にはそれも通用した。ある意味では平和な時代である。
 来春、消費税が上がることになっている。政府はそれまでの景気動向次第で実施しないこともあるとしているが、消費税が上がる前に駆け込み需要があるのは当然である。駆け込み需要があれば、景気指数は当然よくなる。薄型テレビの駆け込み需要とその反動によるその後の長い低迷は記憶に新しい。
 駆け込み需要は直前ばかりではない。マンション、住宅やビルの建設、設備投資などは前倒しが数カ月前から始まるものもあるだろう。こうした消費税率引き上げを前提とした駆け込み需要が景気指数を上げるのは目に見えている。
 駆け込み需要があるから消費税が上がるのか、消費税が上がるから駆け込み需要があるのか、ともかく単純な出来レースである。他国の経済急変などほかの要素で一気に景気が失速する可能性もあるが、ともかく消費税は上がるように既に道筋が出来ている。
 出来レースが終わると、祭りの後のような静けさがこの国を覆うのかも知れない。
2013年8月12日
   いつやるんですか?
 少し今日は涼しいなと感じると30度ぐらいだったりする。暑いと感じるとそれはもう32度以上で、暑さの基準がだいぶ変わってきたというか、温暖化に体が慣れてきたようだ。
 子供のころは35度などという世界は「インド? アフリカ?」みたいな感覚だったが、今や日本国内でも35度は珍しくない。だから30度が「今日は涼しい」と感じてしまうのだろう。
 食べ物にしても、最近は食品添加物とか産地とかに神経質で、中国の食品は危険だと敬遠されているが、日本の食品も昔は随分いい加減な基準で作られていた。
 経済成長とともに生活水準も上がり、健康への意識も高まり、かつては許容されていたことが許容されなくなっている。無論それはいいことなのだが、昔の子供は合成甘味料だらけの食品を駄菓子屋で毎日のように食べ、さらに母親も子供が公園で遊んでいて舐めていた飴を落としてもちょっと拭いて「はい」と渡していたようなところがあった。それでも平気だった。
 我々はいつの間にか温度に鈍感になり、清潔であることを極端に好むようになった。
 決して昔から鈍感で潔癖だったわけではない。基準や価値観が少しずつ変わっていったのだ。
 7月21日に実施された国勢選挙では自民党が事前予想通り圧勝した。
 国家の基準は憲法だが、安部首相はかねて憲法改正を口にしている。価値観は変わる。現在の緊張感などを背景に、一時的な機運で恒久的な基準を変更することには危惧を覚える。少なくとも慎重な議論は不可欠だ。
 間違っても「(憲法改正するなら)今でしょ」などと簡単に便乗しないでほしい。
2013年7月22日
   トップの品格と資格
 野球にはあまり興味がないので統一球の変更がいいことなのか悪いことなのかはわからないが、今回はその手続きそのものが相当おかしいということはわかる。
 ボールが飛びやすい材質に変わっていたのを、球団も選手もファンも知らずにいるというのは、どう考えてもおかしい。プロのスポーツ選手にはインセンティブ契約というのがあるというのは常識で、投手なら防御率、バッターなら打率やホームラン数にもついているはずだ。ボールの材質変更はそうした契約の土台を揺るがすことになる。
 その変更そのものを「知らなかった」「不祥事とは思わない」というコミッショナーの発言には耳を疑う。百歩譲って本当に知らなかったとしても、自分が知らないところでそんな重要なことの変更が勝手になされてもそれを黙認するなら、最早その人にはトップの資格はない。
 全柔連でも先に同じ疑問を持ったことがあった。スポーツ振興センターからの助成金が流用されていた問題で、全柔連の会長は「個人の口座に入金されていて事態を掌握していなかった」と公言した。資金の流用も問題だが、交付金の受け取りという極めて重要な金銭の動きが「個人の口座で行われていた(ので自分は知らなかった)」と言い切れるトップの感覚には唖然とする。
 もうひとつトップの発言で言えば、先にAKB総選挙でトップになったアイドルがインタビューで「(ここまで順位があがったので)次回の総選挙は出ないかもしれない」と言っていた。どうもこちらの発言は憎めない。「やっぱりヘたれキャラだな」と思わず苦笑してしまう。AKBは少なくとも今年はこのへたれキャラが前面に出るのだが、これは案外「吉」と出るのかも知れない。
 選挙で選ばれたことだし、少なくともこの3人のなかで彼女だけはトップの座にいる資格があることは間違いない。
2013年6月17日
   ボーダレス社会
 競馬の当たり馬券への課税問題が裁判となり、話題になった。
 件の男性は、3年間で30億円余の配当を受け取り、馬券購入費用を差し引いた1億4,000万円の所得があったがこれを申告せず、追徴課税を受けた。それなら単なる脱税だが、問題はこの後で、国税局は受け取り額30億円から当たり馬券の購入費用1億円余のみを差し引いた29億円を課税対象としたため、課税額が5億7,000万円と儲けをはるかに上回った。これに対して裁判所は、外れ馬券の購入費用も経費と認めるという判決を出した。
 このケースはそもそも買い方が異常だが、もともと課税の線引きが曖昧という背景はある。単純に利益の一部を課税するというやり方が日常化していれば問題はないが、ギャンブルの配当金はその場では課税されておらず、そこがそもそもの問題だ。
 また競馬や競輪の利益は一定水準を超えると申告の必要があるが、宝くじやtotoはその必要がない。これも分かりにくくしている。まあ宝くじに課税されても幻滅なのだが、分かりにくいのは事実だ。
 あるいは宝くじを共同購入して当たった場合、換金した後で共同購入者に分配すると贈与税がかかるが、最初から共同購入したことを示して換金して共同で受け取れば税金はかからない。この違いも分かりにくい。
 何事にも線引きは必要だが、どうも全体にどこに線があるかが分かりにくい。
 線と言えば国境も線である。日本も尖閣諸島や竹島など所有権の問題でこのところ急に地図の回りに線が出てきた。こちらも線の解釈には大いに相違があるようだ。世界的にみても必ず隣国とはその線引きで揉める。
 ボーダレスの時代なのだから、いっそのことすべての線引きもレスなら揉め事もなくなるかと思うが、ボーダレスはlessだからleastではないし、まして所詮は比較級だからまったくないというわけではない。
 まあ身の回りにまったく線がなかったら、おそらくそれはそれでかなり居心地が悪い気もするが・・・・。
2013年5月26日
   浮沈
 池波正太郎に「浮沈」という小説がある。
仇討ちに立ち会った剣客が、時を経て偶然、その仇討ちを果たした男の落ちぶれた姿と、仇討ちをされた男の遺児が清廉に生きている姿に触れるという話だ。
 過日国会で、安部首相が「私はあの頃はしがない一議員だったが」と述べていた。補足すると「あの頃はしがない一議員だったが賛成票を投じたのは事実で、責任はある」というようなことを何かの法案審議の関連で言っていたのだが、ここでは別にその政治論争に触れるつもりはない。「あの頃はしがない一議員だった」と言う発言について興味深く感じた。
 今は首相という頂点に位置しているわけで、件の発言はその自負の裏返しとも言える。首相就任以来アベノミックスなど経済政策が効果を挙げていることに自信を強めている姿がそこには滲む。
 かつて安部氏が首相を辞任したとき、どれだけの人が安倍氏の復活を想像しただろうか。安倍氏の政策や技量や運を語るつもりはない。ただ人は復活するものだということを改めて思う。安部氏がどれだけ強い意志を持っていたのかはわからないが、人は気持ちさえ折れなければ復活するものなのだと思う。
 今、落剥している人もいるかもしれないが、明日はわからない。1年後などもっとわからない。だから人は毎日生きていけるのだと思う。
 しかし残念ながら、逆もまた真である。今、浮かれている人も、明日は沈む身かもしれない。
 人生は「浮沈」に満ちている。
2013年4月22日
   ほこ×たて対決
 中国に昔、どんな頑丈な盾(たて)でも貫くという矛(ほこ)と、どんな矛も通さないという盾を売る商人がいた。それを聞いた一人が、「ならばその矛でその盾を突いたらどうなる?」と問い質した。
 言うまでもなく「矛盾」の語源である。
 過日、学生の子供を持つ親数人で話す機会があった。共通の話題は子供の就活の大変さだった。今は有名大学を出ていてもなかなかすんなりと就職できない。手を挙げればよかったとまでは言わないが、高度経済成長時代の就職と隔世の感がある。
 そうしたなか、高年齢者雇用安定法の改正により、60歳を超えても本人が希望すれば65歳まで引き続き雇用を継続することが会社に義務付けられることになった。雇用条件などのルールは曖昧だが、ともあれ60歳を過ぎても雇用は継続されるというルールができた。
 無論それなりの理由はある。年金受給年齢引き上げの問題が大きいが、社会全体が高齢化するなかで60歳もまだまだ働き盛りという側面もある。熟練社員のスキルがリタイアされてはもったいないという理屈もその通りだ。しかしいずれにしても、就職難という入り口が狭い状況は続くのに、出口も小さくする形となることだけは間違いない。
 日本は豊かになったが、その豊かさゆえに今度は海外に生産を移さなければコスト競争力を維持できない状況になっている。海外に生産が移れば、当然のことだが国内工場には余剰人員が生まれ、工場を閉鎖したり人員削減を実施せざるえなくなる。豊かさを維持するためにする行動が結局はこの国の体力を弱めていることは否定できない。
 テレビの「ほこ×たて対決」はうまい具合にいつも白黒がつくが、日本の抱える矛盾はどちらかが勝ってCMというわけにはいかない。どちらが勝つとかどちらを生かすとかではない、双方を止揚(アウフヘーベン)した新たな知恵が求められている気がする。
2013年3月18日
   存在の耐えられない軽さ
 スポーツ選手の移籍ニュースの隣で、まるでバルセロナとレアルマドリードの戦力比較をするように、日本の自衛隊と中国の軍隊がもし戦ったらという戦力比較の記事が出ていた。それは日本が圧勝するというシミュレーション結果だったが、「だから何だというのだ?」という思いを禁じえない。
 安倍首相は憲法を改め、自衛隊を国防軍と位置づけたいらしい。それはただの看板の問題なのか。そんなはずはない。 
 メディアも、政府も、まるでいつでも戦争しますよと言わんばかりである。
 また先日はスキャンダルが発覚したアイドル歌手が丸坊主になって謝罪していた。AKBの掟がどれほどのものなのかは知らぬが、スキャンダルの発覚が丸坊主になることで「けじめ」になるという理屈はどうにもわからない。おそらくは自発的に坊主になったのだろうが、謝罪の形が丸坊主になるという行為に至る思考プロセスには違和感を覚える。
 昔は「バカ、カバ」と言って子供が喧嘩したが、今の子供は「死ね」と言う。無論「死ね」と言っても殺意を意味しないことはわかっているが、「死ね」という言葉は「バカ」と罵るほどの重さしかないのか。
 戦争も、丸坊主も、死も、随分と言葉の持つ重みが軽くなってしまった。それはそのことの存在そのものが軽くなってしまったということなのかも知れない。
2013年2月4日
   日本の明日
 最近は洋画のタイトルをそのままカタカナにして日本で公開するケースが多いが、かつては邦訳することが多かった。直訳している場合もあるが、なかには日本でのタイトルが原題とまったく違ったものになっているケースも少なくなかった。
 個人的に日本でのタイトルが最高傑作だと思うのは、原題が「BONNIE AND CLYDE」。
 アーサー・ペン監督の代表作で、2人組の実在の犯罪者、ボニーとクライドを描いた作品で、原題は主人公の名前そのままだったが、日本では「俺たちに明日はない」と題されて公開された。映画史上に残るラストシーンとともに、日本でのタイトルは映画を超えた感すらある。
 「俺たちに明日はない」は67年の作品で、日本での公開は68年だから、日本も高度経済成長期にあって、「明日」が輝かしいものとして信じられるという前提があった。そうしたなかで逆に「俺たちには明日がない」という言葉の響きがアウトロー的なかっこよさにつながっていた。
 今だと「俺たちには明日はない」と言われても、共感できる社会問題の響きがにじんでしまい、どこか悲しい。アウトローがアウトローであった時代がなつかしい。
 ちなみに個人的にもうひとつ好きなタイトルは69年のアメリカ映画で、こちらの原題は「BUTCH CASSIDY AND SUNDANCE KID」。日本公開は70年で、これも実在の銀行強盗など行った犯罪者の2人組、ブッチ・キャシディとサンダンス・キッドの物語。原題はこちらも主人公の名前そのままだったが、日本では「明日に向かって撃て!」 と題された。
 明日に向かって撃て、という日本版タイトルは、おそらくは少なからず前出「俺たちに明日はない」のヒットが下敷きになっていただろう。それを割り引いて考える必要はあるが、それでも少なくとも原題よりははるかにいいと思う。
 しかし今ではこのふたつのタイトルともやや陳腐な印象が否めない。それは「明日」に対する幻想が崩れてしまったからだと思う。「明日」に対する幻想が明るいものとして厳然と存在していれば、「俺たちに明日はない」という言葉は今でも十分に新鮮なはずだ。
 別な言い方をすれば「俺たちに明日はない」という言葉に強烈なアウトローの響きがある社会は健全だと言える。
2013年1月7日
   Be Cool
 理想の結婚相手は3高よりも今では3平(平均的な年収、平凡な容姿、平穏な性格)と言われている。
 そもそも結婚相手がそうした条件的なことで左右されるということ自体が打算的だとは思うが、3高よりも3平がいいという風潮には複雑な思いがする。3高を望むというのも卑しいが、3平を求める社会が健全かというとそこもまた疑問が残る。
 大手といえども何の保証もない時代になったのは事実だが、平均的であることが理想であるとみなされる社会には到底成長性は望めない気がする。
 競争社会のなかでは勝者がいれば敗者もいるのは当然だ。3高を望まないという風潮は、勝者も明日は敗者になるという危惧からだろうが、だからといって理想が平均的や平凡であるというのは、それはもう競争社会を否定しているということにさえ思える。
 若い女性の風潮をメディアが断片的に強調しているだけかもしれないが、最近の人気の職業は公務員ということも照らし合わせると、そうした風潮が現実にあることは間違いない。
 若い女性の好みが3高から3平に移ったことと、日本が競争力を失ったことが、まったくの無関係とは思えない。
 さて衆議院選挙の結果、自民党が圧勝した。しかし前回民主党が大勝したような熱狂はなく、投票率も戦後最低だった。民主党や乱立する第三極への拒絶反応による消去法から、仕方なく自民党が選ばれたという感は否めない。
 どうやら結婚相手にも政治にも醒めた選択しかないというのが現代の状況のようだ。
 話は変わるが、かつて「ウエストサイドストーリー」という映画で、熱くなった仲間に「Be Cool」(冷静になれ)と登場人物が語りかけるセリフがあり、かっこいいなと思った記憶がある。
 「熱くなれ」と語りかけるのは「Be Cool」と語りかけるより、何倍も野暮だ。
2012年12月17日
   沈黙の重さ
 先日クラス会があった。共学ではなかったので、浮いた話もないし、浮いた話の後日談も当然ない。美魔女もいない。ただ男ばかりの集団でも、やはりこの年齢になってくると、髪の毛やら体型やら至る所で違いは出てくる。自分のなかでは18歳のときのイメージから止まっているが、面影さえないほど変貌している者もいる。裏返せば、自分もそれだけ年取ったということだ。
 またこの年齢になると、社会でも微妙なポジションになるケースもあるようだ。大手で働いていたはずの者などから「実は会社変わったんだ」と新しい名刺など出されると、やはりそれなりの葛藤があったのだろうと思わざるをえない。
 外見にも、肩書きにも、本人の生活や人生がにじむ。ただそれでも、出席者については、少なくとも皆それぞれに「元気で頑張っている」という一点では共通する。
 しかし来れなかった者、来なかった者も当然ながら、少なくない。
 クラス会では、冒頭に既に物故している同窓生の紹介があり、黙祷をささげることになっている。世間的にはまだぼくらの年齢は「早死に」だろうが、それでもやはり何人かはいる。
 また会場では「音信不通者」の名簿もあった。無論、音信不通といっても、かつての住所に連絡をしても通知が返ってくるというレベルのもので、単に転居しただけの者も多いだろう。しかしその名前を見ると、ひとりひとり18のときの姿が浮かび、目の前のおじさん達の一団とのギャップに言葉がなくなる。単に連絡がつかない者もいるだろうが、連絡を拒絶している者、そして実は物故しているという者もいるのだろうかと、つい思う。
 「色々と大変だよ」と語れる人間の抱えているその大変さよりも、当日来れなかった(あるいは来なかった)者の沈黙は遥かに重い。
2012年11月5日
   とほほな話
 隣の家には隣の家のルールがある。教育方針にしても、主義主張が異なっていても、それを干渉する権利は我が家にはない。
 ただこのごろ隣家の乱暴な子供たちが騒ぎを起こして困っている。先日も大騒ぎをして、庭の一部を借りて運営している家庭菜園を荒らされた。自分たちの庭で騒ぐのは仕方ないが、菜園は我が家で正式に借りているもので荒らしていいはずがない。
 しかしその乱暴な子供たちも親の言うことはよく聞くようで、あるいはお小遣いをもらっているのかも知れないが、昨日まで暴れていると思ったら、急におとなしくなったりもする。その辺は驚くほど組織化されている。またもともと子沢山なので、面白半分に悪口を言っている子供だけでなく、乱暴な子供や、調子に乗って関係ない菜園運営費用の値上げまで要求する子供もいる。
 親同士がきちんと話し合えれば一番いいが、肝心な我が家の親があまりにも頼りない。そもそも果たしていつまで親でいるのかさえわからない始末だ。
 そういえば近いうちに親を辞めるって言ってたけど「近いうち」っていつだろう?
 どうせ辞めるのなら早く辞めて新しい親に交渉してもらうしかない。
 ただ新しい親が誰なのかさえ想像もつかないというところがまた情けない。
2012年9月25日
   今しかない、というタイミング
 このタイミングで、と思うことはよくある。ニュースなどを見ているとこのタイミングで、この行動、この報道、ということはよくある。
 小沢一郎議員をめぐる検察の動き、離婚報道など、いずれも絶妙なタイミングで出た記憶がある。また最近でも、この閉塞感が強いなかで消費税増税なのか、そしてその最中での政局争いなのか、と強く感じた。
 またこの夏はロンドンオリンピックが世間の注目を集めたが、そうしたなかで原発事故直後の東京電力の映像が公開された。さらに日本で消費税増税法案が可決されようというなか、また男子サッカーの日韓対決の前日に、韓国大統領が竹島に上陸した。たかがオリンピックと原発や領土問題はまったく関係ない動きとみるべきかもしれないが、それでもやはり「このタイミングで」という思いは禁じえない。
 一方、世間がお盆休みに入ろうとするまさに週末の8月10日午後にモータメーカーのシコーが民亊再生法を申請した。
 もう20年ぐらい前になると思うが、シコーの白木社長に取材したことがある。当時はまだプレハブのような社屋の会社だったが、ベンチャー企業として既に発展していたし、白木社長はいかにも理系の技術畑の社長という人物で、熱く自社の技術を語ってくれた。パソコン、携帯電話、スマートフォンとうまく用途先を展開していたようにも見えたが、まさに各企業がいっせいに夏休みに入る直前という絶妙なタイミングで法的申請を行った。
 しかし思うに、おそらくどの場合でも「なぜこのタイミングで?」と思うのは当事者以外の人間だけだ。当事者にとってはそのときがまさに「今しかない」というタイミングだったに違いない。
2012年8月12日
   健康のためなら死ねる
 健康ブームである。
 食べ物、飲み物は言うに及ばず、生活習慣など、多くのことが「健康」というキーワードで語られることが多い。
 思えば高度経済成長時代やバブル期には、「儲かる」が切り口だったような気がするが、今やお金ではなく、健康が価値観のベースになっているようだ。
 確かに健康がすべての基本であり、そこが価値基準の根幹となることにはさほど不自然な要素はない。しかし何事も過ぎたるは及ばざるがごとし、である。
 「健康のためなら死ねる」
 というのは、なかなか気の利いたジョークだが、本当に健康のために死んでしまっては元も子もない。
 特異なケースではない。急激なダイエット、激しい運動、健康に気を使いすぎることによるストレスなど、落とし穴はいくらでもある。
 「健康のため」というキーワードで無理をして体を壊してしまっては何の意味もない。
 さて、消費税がどうやら上がりそうだ。年金など社会保障のためらしい。
 社会保障制度は確かにこのままいけば破綻するのだろう。しかしその行き詰まりを打開しようとして、税金を上げて、経済状態が急速に冷え込んでしまっては逆効果だ。
 保障を手厚くするために今が崩壊してしまっては意味がない。
2012年7月16日
   杞憂とリスクの境界線
 出だしの3連戦を2勝1引き分けで乗り切り、サッカー日本代表チームはブラジル大会出場に向けて好発進した。
 アジアの出場枠は4.5カ国あるためBグループで2位までに入ればよく、さらに3位でもプレーオフで可能性があるため、出場にはかなり近づいたといってよい。しかしまだアウェーで全部負けたら、というサポーターもいる。また気の早いサポーターのなかには、2022年のカタール大会はアジア枠が3.5になる可能性があり、厳しい戦いになると今から心配している人もいる。これは明らかに杞憂である。
 一方原発の再稼動が決まった。国際的なストレスチェックの基準が日本でどの程度有効性があるのか、疑問である。
 思惑はあるだろう。経済的な背景もあるだろう。しかし日本中でこれだけ地震のリスクが言われるなかで、福島の状況を目の当たりにしながらもなお再稼動に踏み出すというのは、どういう「政治的判断」なのかと思う。まず「再稼動ありき」だった気がする。日本はリスクを抱えたと言ってよい。
 首都直下型地震、欧州経済危機、円高進行、タイにおける洪水被害の再現、そして原発の再稼動、サッカー日本代表のW杯予選通過。
 リスクと杞憂の境界線は人それぞれであるが、誰の目にも明らかなリスクがこのなかにいくつかある。
2012年6月18日
   会議は踊る
 「会議は踊る」という言葉は映画によって有名になった感もあるが、もともとは事態が進捗しない19世紀の国際会議の様子を評した「会議は踊る、されど進まず」という発言から来ている。
 原発事故発生直後の東電や政府の対応もやはり「会議は踊る」という状態だったのだろうか。
 事故調査委員会のヒヤリングなどを読むと、多くのことが空転していたことが改めて明らかになっている。「会議は踊る」の舞台となったウィーン会議とは緊迫度や様相は異なるものの、原発事故後の東電や政府の対応は、責任回避のなかで貴重な時間が失われたという側面があったことは否定できない。
 会議にせよ、事故が起きた後の収拾にせよ、保身と利害が交錯して、なかなか物事が決まらないということはよくある。
 会社も同じである。個人の思惑と欲得が入り乱れて歩みが遅くなると、会社は成長が止まる。
 歴史と災害と会社経営を同次元で扱うのはいささか乱暴かもしれないが、要は自分の身を守ることばかりに気をとられ、人の顔色だけを窺っていると、気がつくと周囲の景色がまったく変わっているということだと思う。
 自分の足元ばかり気にしていると、自分のいる社会全体が崩れていることに気がつかなくなる。社内の自分の地位を確保しても、当の会社が倒産してしまっては意味がない。会社を守っても、国が滅んでは意味がない。いつの時代でも、どんな場面でも大切なのは大局観だ。
2012年5月23日
   イグアナのつぶやき
 海を見ているガラパゴス諸島のイグアナの写真を見た。その目に映る海の向こうに何があるかを、イグアナは知る由もない。
 かつて日本は、半導体市場でも、液晶市場でも、そして太陽電池市場でも大きなシェアを握っていたが、今や上位は外国勢が占めている。
 更生法を申請したエルピーダメモリは、会社としては今も存続しているが、そのスポンサー候補には外資の名前ばかりが出ている。また過日はシャープが台湾のEMS大手、鴻海(ホンハイ)グループとの資本・業務提携を決め、10%弱とはいえ鴻海はグループ全体でシャープの筆頭株主となった。堺工場も鴻海の郭台銘董事長が5割近い株式を握ることを考え合わせると、事実上シャープは台湾企業の傘下に入ったという言い方さえできる。
 かつては日本企業が世界中のあらゆるものを買い尽くしてきたが、今や日本は買われる存在となった。ジャパンマネーが席捲していた時代には、日本はバッシング(bashing)される対象だったが、今やその存在感は小さく、パッシング(passing)されるほどだ。
 そう考えると、買い手がつくというのはまだその程度の存在感はあるということかもしれない。
 ガラパゴスのイグアナは遠い海を見つめていればよいが、しかし実際にはこの国はガラパゴス諸島ではない。日本人も当然、イグアナではない。ガラパゴスの生態系は保護されているが、この国が保護される理由はどこにもない。そこに利権があれば、当然日本は、あるいは日本が手にしていたマーケットは、狙い撃ちに遭うばかりだ。
 「ガラパゴス化」という巧みなネーミングに酔いしれて、事の深刻さを見失ってはいけない。ガラパゴスという言葉の余韻が深刻さを打ち消してしまっているが、事態はもっとずっと深刻だ。
2012年4月9日
   エルピーダメモリ
 エルピーダメモリの会社更生法申請は、製造業で過去最大の倒産事例となった。更生法だから会社は存続、さらにDIP型で経営陣も続投、坂本社長は「リストラはしない」と今のところ語っており社員も継続雇用されるが、取引先債権者だけは債務のカットで泣きをみることなる。
 弊社では、更生法申請当日にメディアを対象に行った緊急記者会見と、取引先および金融機関を集めて開催した債権者集会の双方に出席した。記者会見は大手メディアがこぞって来たが、債権者集会はメディアは来ておらず、両方に出席したのは弊社だけかという気もしている。その内容は弊社サイトでも報じているのでそちら見ていただきたくとして、内容というか雰囲気はまったく異なっており、特徴が出た。債権者集会では「なぜ倒産に至ったか?」という点はあまり議論にならなかったが、やはりそこは本来は追及されていくべきことだと思う。
 かつてある人に「倒産は大なり小なり経営者と社員のその双方に原因がある」と言われたことがある。毎日のように倒産会社の取材をしており、直接経営者や社員に話を聞いたり、債権者集会に行く機会も少なくないなか、確かにかつては倒産会社には経営者と社員の双方に倒産に至る何らかの原因があったケースが多かったのではないかと率直に思う。
 ただ最近は少し様相が異なってきているという気もする。エルピーダの坂本社長は「うちの社員は極めて優秀」と繰り返し語った。一方で「(いかなる技術革新や経営努力も)円高がすべてそれを帳消しにしてしまった」とも語っている。
 エルピーダについて、韓国サムスン電子との競争に負けたと言う論調もあるが、それは技術で負けたのではなく円とウォンの差で負けたという言い訳もある一面では確かに成り立つ。
 債権者だけを泣かせる更生法という手続きを前にエルピーダを擁護するつもりはないが、円高が日本企業に与えるダメージは本当に大きい。経営者もあらゆる手を尽くし、技術者も優秀だったがエルピーダは倒産に至ってしまったとまでは言わないが、社員も経営者も無能で倒産に至ったとは思わない。「円高がすべてを帳消しにした」という言葉はそれなりに噛みしめてよいのではないか。
 これはエルピーダメモリという一企業の問題ではない。日本の多くの中小企業を含めて日本の国内メーカーすべての、そして日本全体の大きな問題である。
 話は単純ではないのかもしれないが、やはり思う。政府は、日銀は、もう少し深刻に円高対策を国策として考えるべきだ。日本のかつての高度経済成長も、現在の中国の経済成長も、背景には為替があると指摘する意見もあるのだ。日本が再び力を取り戻すために、為替対策は欠かせない。
2012年3月5日
   ガラスのコップ
 「ガラスのコップを食べて幸せになるのなら食べればよい」
 という言葉があるが、やはりガラスのコップを食べている人がいれば心配する。知人や家族なら止めるだろうし、それが有名人なら興味の対象になるだろう。
 連日、テレビや雑誌でも霊感師に洗脳されているという某女性タレントの話題を提供しており、Web上でも話題だ。
 確かにガラスのコップを食べているようだし、問題はそれで当人が到底幸せになっているとは思えない点だ。
 韓流スターに熱をあげるおばちゃま達や、アイドルを追いかけるオタク達は、どこかで見ているこちら側が苦笑してしまうようなうっすらとした幸せ感がにじんでいるが、件の女性タレントはどうも何もかもがスポイルされてしまっているという印象を拭えない。
 旅費を払って韓国に行ったり、投票券目当てでCDを何枚も買うのはまだ可愛いが、生活の基盤すべてを失くして全財産を吸い取られるというのは、尋常ではない。当人は幸せの境地というより、既に常識的な感覚がなくなっているのだろう。
 どうしてそこまで? と思うが、プロセスはなんとなく想像できる。
 怪しげな開運グッズや占いは世の中に溢れている。誰もが何かを信じたいという潜在意識を持っているからだ。
 そうしたなかで、「あなたは今年人生の重大な転機を迎える」という総花的な言い方を1000人にすれば、50人ぐらいには当たるだろう。そしてその50人にさらなる新たな総花的なお告げをすれば、また数人にはあたるだろう。残る999人はこうなると関係ない。偶然振り分けられた1人にとってその発信者は「ガラスのコップ」になる。
2012年2月26日
   楽しきをつめ
 震災に見舞われた2011年が終わり、新しい年になった。なかなか区切りのつかない生活の変化を余儀なくされている方々も多いだろうが、年が変わって気分だけでも一新したいところだ。
 正月のテレビは相変わらずお笑い番組などバラエティが多い。そうした風潮に眉をひそめる向きもあるだろうが、正月を笑って過ごすというのは古来伝統的な吉事である。
 1000年以上前の古今和歌集にも「新しき  年のはじめに  かくしこそ  千歳をかねて  楽しきをつめ」と歌われている。作者は不詳だが、新年には千年の繁栄を想い描いて楽しみを積み重ねようという意味とされる。
 1000年以上も前から「年のはじめ」には「楽しきをつめ」と歌われているのだと考えるとこの国の持つ伝統の深さを改めて感じる。
 お笑い番組と古今和歌集を重ねるのにはさすがに抵抗もあるが、年明けだけでなく「楽しきをつめ」ていける年になればよいと思う。
2012年1月4日
   消えない「戦後」
 かつて「戦後、強くなったのは靴下と女性」と言われた時代があった。
 しかしこの言葉のニュアンスは、今ではなかなか伝わらないだろう。靴下がなかった時代や、女性が弱かった時代というのは人々の記憶から徐々に薄れているからだ。
 そう思ってみると、改めて街には最近女性の姿が目につく。カップルもいるが、女性同士で出かけているケースが少なくない。女子会、おひとりさま、などはいずれも女性が存在感を増しているという何よりの証しだろう。
 新商品なども、若い女性がターゲットとなるケースが多い。逆に若い男性がターゲットになるのは、漫画やゲームなど家で楽しむものが主体になっている気がする。
 草食系男子、肉食系女子が増えているのは、間違いない。
 2011年にはサッカーでもなでしこジャパンが活躍した。この年末にかけて大ヒットしたドラマも家政婦が主人公で、一家の主は家では奥さんに自殺され、職場も辞めさせられ、一時は家でも居場所がなかった。そういえばツレの男性が鬱病になるという映画もあった。いずれも現代を象徴しているという気がする。
 「戦後、強くなったのは靴下と女性」という言葉が死語となるほど、今では誰もが靴下を履き、女性も社会に進出して発言力を増している。
 しかし一方で「戦後」という言葉はなかなか死語にならない。戦後という概念もなくならない。
 戦争は既に遠いのだが、たかだかひとりの独裁者の死でリスクが高まってしまうのが今の世界の現実だ。
 しかしそれは自由研究で捕まえた本物の玉虫の輝きではなく、復元前の玉虫厨子のように色褪せて映る。
2011年12月26日
   玉虫の輝き
 最近ではとんと見かけないが、昔は玉虫をよく見た。小学校の自由研究でも昆虫採集で捕まえたことがある。確かに光の加減で様々な色に映る様子は不思議だった。もう少し大きくなって修学旅行で法隆寺の「玉虫厨子(たまむしのずし)」を見た。今は復元されているらしいが、その時に見た玉虫厨子は既に玉虫の装飾がすっかり剥げ落ちていて、なんかがっかりした記憶がある。
 野田総理がTPPについて「交渉参加に向けた協議に入る」と発言したことが玉虫色だと批判されている。
 電機業界や経済界にとってはTPP参加は必要であり、今回の決定は実質「交渉開始だ」と認識して歓迎ムードだが、反対派のなかには「協議に入る」という表現で踏みとどまってくれたと安堵している政治家もいる。
 だから「玉虫色の発言」なのかもしれないが、どう考えてもあの発言はゴーサインで、あれで「交渉参加を踏みとどまってくれた」とは普通は思えない。
 「あなたとはいい友達でいたい」と恋人に言われて「親友みたいな存在なのか」と思って喜んだり、「君にはもっと君にふさわしい職場がある」と解雇時に言われて「能力を認めてくれた」とうぬぼれるくらいの無理がある。
 「協議に入る」と踏みとどまってくれたと言う政治家は本当にそう思っているのだろうか・・。おそらくは違うだろう。自分の選挙区に向けてのあれはポーズであり、むしろ稀代の名優と考えるべきだ。
 玉虫の羽根は野田総理の背中だけではない。永田町全体がむしろ玉虫色をしているのだ。
 しかしそれは自由研究で捕まえた本物の玉虫の輝きではなく、復元前の玉虫厨子のように色褪せて映る。
2011年11月21日
   アメリカンドリーム
 ギリシャの経済危機などに端を発し、欧州でデモがあり、それが飛び火して米国でも大規模デモが起きている。
 米国のデモ参加者は「格差社会の是正」を訴えているようだ。
 アメリカといえばアメリカンドリームに象徴されるサクセスストーリーの国だが、そのアメリカで「格差社会」否定の動きがあるのには少し奇異な印象を受ける。
 サクセスストーリーとは、ある意味では格差社会そのもののような気がするが、「格差社会の是正」を訴えてデモに参加している人々はそのどこまでを否定しているのだろうか。彼らはアメリカが共産主義国家となり一定の不自由を共有する国家になることを望んでいるのだろうか。
 無論、デモ参加者にはそれなりの主張があるのだろう。
 「チャンスの国」とは名ばかりで実際にはハンバーガーショップの店員は一生ハンバーガーショップの店員で、富は本当にひと握り(一説では1%)の人々に集中していると彼らは言いたいのかもしれない。実際にそうなのかもしれない。残念ながらアメリカ人ではないので知らないが・・。
 しかし個人的には、だからこそ逆にアメリカンドリームは存在するのだと思う。
 夢の大きさといつか訪れるチャンスを掴む勇気、それがアメリカンドリームを生む源だと思う。そしてその夢を見る権利が等しく与えられているという点においてアメリカはチャンスの国なのであり、その夢をつかんだ人が1%であろうと、2%であろうと、それは結果にしか過ぎない。ましてそれはデモによって否定されるような性質のものではないという気がする。
 まあ1億総中流の日本人に言われたくないだろうが・・・。
2011年10月23日
   「明日」があるさ
 正確な数字は忘れてしまったが、テレビで見た女性の意識調査でひどく印象的なものがあった。
 つきあっている彼氏の浮気を許せるか、というような問いかけだったと思うが、「許せる」「許せない」という2択ではなく、別の答えの存在が興味深かった。それは、ともかく「最後までだましてくれればそれでいい」という回答がかなり高いウェートであったことだ。「許せる」か「許せない」かよりむしろ、「知らなければそれでいい」という考え方が存在したことに興味を持った。
 それが女性特有の反応なのか、あるいは男女限らずそういう考えの人がどの程度いるのかまではわからない。ただ確かに、許せるか許せないという価値観以前に、「知らなければ許すも許さないもない」という言い方には一理ある。
 末期ガンを告知されて廃人のようになるケースもあると聞く。知らなければ、死の直前まで生を全うできたかもしれないのに、命に限りがあることを知ったばっかりに、逆に厭世観にさいなまれる。ありそうな話だ。無論、命に限りがあることを知って最期まで生き抜く人もいるだろう。しかしそれでも、もしかすると自分に寿命が近いことなど知らなければ、それはそれで、その方がよかったのではないかという思いもよぎる。
 弊社は情報の発信を仕事としており、情報の必要性を認識したうえでこの仕事をしていることは言うまでもない。生きていくうえで、正確な情報がどれだけ有益で、また必要であるかは論を待たない。
 しかしそれが曖昧な不安を助長するだけのものだとしたら、話は別だ。危機を回避する知恵は必要だが、たとえば震災のような、いつ来るかわからない天災に怖れて、萎縮して生きていくのは愚かだ。
 震災への備えは必要だし不可欠だ。原発のような震災が引き起こす2次災害への情報開示も求めていくことも必要だ。しかしいつ来るかわからない震災を過度に怖れることはない。震災は明日来るかもしれないが、自分が生きている間には遭遇しないかもしれない。
 人は今日の続きが明日であり、明日の続きはあさってであり、それが10年先、20年先に続くのが大前提で今日を生きている。
 今日もいい1日だったが、明日はもっと明るい日に違いないと思えることの方が重要だという気がする。「明日」という言葉にはそういう意味が込められているはずだ。
2011年9月20日
   隣の芝生
 中国の鉄道事故に驚きを覚えた人は少なくないだろう。
 事故そのものよりも、事故の事後処理について、むしろ驚きの連続だった。日本の鉄道に慣れているせいか、事故そのものもかなり「ありえない」ことだと思うが、事後処理はさらに「ありえない」ことだらけだった。
 事故車両を埋めてしまおうという感覚も凄いが、2日後には何事もなかったかのように運転を再開したのも凄い。しかも事故現場の映像を見るとありえない応急処置で、日本ではちょっと考えられない出来事だ。さらに賠償額が簡単に即決提示されたのも考えようによっては凄い。
 「なかったことにしよう」という思惑がわかりやすいくらいはっきりしている。
 これは単に技術や安全性の問題ではない。隠蔽体質と、さらに何があっても押し通してしまえばそれがまかり通る、と考えている姿勢が垣間見えている。そのことの方がはるかに問題である。
 さすがに抗議行動も起きているようだが、どうも限定的のようだし、中国という国はまだまだ民主化の道は半ばという気もする。あのような事故処理とその後の動きをみると、グローバルスタンダードは遠い、GNP2位もどれほどのものか、と思う。
 しかしよく考えれば日本もそれほど大きなことは言えない。
 鉄道事故とは比較にならない被害が中長期的にも潜在している原発事故でも、ありえない発言や裏工作が次々と出ている。
 また「嘘」とまでは言わないが、政治の世界ではまだまだ詭弁が通用している。辞めると言った首相はいつまでも辞めないし、議員を辞職すると確か言っていたはずの前首相も一向に辞めそうにない。
 隣の国も、自分の国も、結局は変わらない。でもなぜか隣の国の芝生は青く見えない。まあその程度の差だろうと思うが、この差はそれなりに大きいという気もする。
2011年8月1日
   散る桜
 その人はもともと市民運動家だった。市民運動を志した原点は不明だが、大学時代は学生運動もしており、体制や組織の矛盾に立ち向かう意識は少なくともあったのだろう。
 その後、女性の地位向上や選挙の浄化運動に尽力した市川房枝の選挙参謀を務め、自身も政界入りした。しかし当初は落選続きで、何度落ちても選挙に挑んでいた。
 真偽は定かでないが、かなり若い頃から「末は総理大臣になる」という思いを持ち続けていたようで、実際に多くの政界再編のなかで、党首選への立候補などを繰り返していたのは記憶に新しい。
 「末は総理大臣」という夢が市民運動の延長線上にあったのかどうかは本人でないとわからないが、草の根運動と権力志向が同居しているところに矛盾を感じなくもない。
 しかしともあれ、回り道の末にこの市民運動家は一国の首相となり、夢は叶った。
 問題はそこからだ。何をなしえたかはここでは問わないが、どれだけの思いをして獲得した地位だからといえども、詭弁を弄してまでその地位にしがみついているのは美しくない。
 引き際、散り際というのはなかなか難しいが、良寛の句に次のような一句がある。
 「散る桜 残る桜も 散る桜」
 所詮、みな散っていくのだが、なかなか桜のように鮮やかに散ってはくれない。
2011年7月4日
   色即是空
 あたりまえのことが揺らいでいる。
 福島原発のインパクトがあまりにも強いのでメディアの追及も甘いが、みずほ銀行のシステム障害やソニーの個人情報の大量流出も重大なクライシスだった。「だった」というより、それぞれ温度差はあるが、すべてがまだ解決したわけではなく、今後も同様のことが起こりうる可能性は拭えない。
 この3つはそれぞれ我々の暮らし、社会制度そのものを根底から大きく揺るがしている。
 原発事故の影響は言うまでもないが、みずほ銀行のシステム障害も企業では決済、個人では給与振込や自動引き落としなどにも影響を与える可能性があった。ソニーの個人情報流出はそれが何かの犯罪に結びつくという可能性だけでなく、ネット社会の信頼性そのものを揺るがすという意味でも大きな出来事だった。
 あたりまえのことがあたりまえのように続くことが前提で人は生活をしている。
 水、空気、食品の安全確保が生命活動に不可欠なのは言うまでもなく、現代社会では金融機関の信頼性とか、ネットの信頼性も当然求められる。そうしたものの信頼性がここにきて続けて一気に揺らいでいるのは単なる偶然だろうか。「神の見えざる手」のようなものを感じるのは自分だけだろうか。
 原発のリスクはかねて指摘されていたことであり、そこに付随する巨額な利権とともに、人為的な部分が大きな被害につながった側面が否定できない。みずほのシステム障害も、ソニーの個人情報漏洩も、程度の差こそあれ人がかかわったことに変わりはなく、人為的な事故だったと言わざるをえない。特にソニーの漏洩はハッカーの仕業であり、人が人の社会をさらに混乱させているという意味で末期的な思いもある。
 「あたりまえのこと」としてこれまで見過ごしていたことを、ひとつひとつ見直すいい機会なのかもしれない。「あたりまえのこと」の価値観をもっと大切にしたい。
 いつもある、いつまでもある、と思っていたものだって、ある日急になくなることだってある。
2011年5月23日
   新たな「東京物語」
  「震災前とその後では、日本人の心のあり方は変わってくるのではないか」
 という理由で、山田洋次監督が予定していた映画の制作を延期した。
 山田監督が手がけるはずだったのは、かの小津安二郎の名作「東京物語」のリメイクだった。リメイクといってもまったく新しい脚本で現代の家族を描く予定だったようだが、震災によって脚本をすべて書き変えることになった。
 「東京物語」は、終戦から8年後の1953年に作られた作品である。家族の絆が描かれている小津映画の傑作だが、核家族化、高齢化社会、そして戦争からの復興が始まり物質的な豊かさを求めるなかでの世代間の価値観のズレなどが背景にあり、テーマは社会性に富んでいる。
 震災時点で日本は、政治的にも、構造的にも、経済的にも大きな閉塞感に包まれていた。バブル崩壊後の「失われた10年」はいつしか「20年」となり、さらに進行形で失われ続けていた。そうしたなかで今回の震災は、まさに価値観を一変させる大きな出来事だったと言える。
 高度経済成長の時でなく、まして戦争中や終戦直後でもなく、この閉塞感のタイミングでにこうした大きな震災があり、さらに原発の問題や電力不足など、まだしばらくは危機意識を抱え続けなければならないというのは、何かの教訓を暗示しているという気がしてならない。
 山田監督はかつて寅さんシリーズで日本人の原風景とも言うべき偉大なマンネリズムを描いた。
 寅さんはいつも映画の最後に「あばよ」と言って故郷柴又を後にして、半年後にはちゃんと「相変わらず馬鹿か?」と笑いながら帰ってきた。しかし渥美清の死もあり、寅さんは結局95年を最後に帰ってこなくなった。
 震災で多くの犠牲者や地域に被害が出たことへの思いは無論あるが、大切なことはやはり明日をどう創るかだろう。
 失われたものへの喪失感でその場に踏みとどまるのではなく、残された人々がこれから先をどう生き、どういう社会を作っていくかの方が大切だろう。
 偶然だろうが、最後の寅さんシリーズが作られた95年は阪神大震災が起きた年であり、そのロケ地もまさに震災後の神戸だった。
 ノスタルジーは胸のなかにとどめ、それぞれが新しい「物語」を創ることが大切だと思う。
 復興ではなく、新しい「物語」を。
2011年4月25日
   日本人としての矜持
 あの3月11日の夜、電車が完全にストップするなか、新宿の駅前はバスを待つ長蛇の人の列が延々と続き、歩道は歩いて自宅まで帰る人で埋まり、車道もその送迎と思われる車で大渋滞となったのを目撃した。
 こうした光景を取材した米国メディアは「日本人は驚くほど冷静だった」と伝え、CNNでは「日本の国民はミラクルだ」とまで報じた。また反日デモなどが起きていた中国でも「落ち着いて秩序を守る日本国民の強靭さは鮮明」と報道、さらに「どんな事態が生じても、日本では略奪や大パニックが生じないと言っても、大げさではない」とし、さらには「住民は行列して給水を受けた」という見出しで福島の人々の動向まで伝えた。台湾では「日本人の態度はいたって冷静。世界中から尊敬を浴びても足りないくらいだ」とさえ報じている。
 その後の停電でも、ほとんど唯一営業していたといってもいいコンビニのなかで、女性客が買い物をして懐中電灯を手に支払いをする光景を私は目の当たりにした。無論、略奪など起こる気配するそこにはなかった。
 皆無ではないかもしれない。残念ながら避難所でも車上荒らしのような情けないことをする人もいると聞いた。しかし不安と不便のなかでも、大きな混乱はなく、人々は助け合って生きている。それは世界的に見れば驚きに値するのだ。
 地震の影響を各方面で世界中が危惧するなか、それに対処する我々日本人に対しては逆に評価が高まっている。
 かつての高度経済成長時に我々は海外から「エコノミックアニマル」と呼ばれ、何か大切なものを失ってきた気がする。しかし我々は、略奪も暴行もない社会に生きているのだ。ひとりひとりの日本人がその社会を構成する一員なのだということを改めて感じていいと思う。
 今回の地震は悲惨だったし、まだその影響は終わりが見えていない。今後の産業界への影響も甚大だと思う。しかし同時に、日本人の本来持っている素晴らしい国民性も我々は改めて気づいた。
 多くの人々大切なものを失ってしまったかもしれない。その大きさを思うと、心が痛む。しかしまだ失われていないものが我々のなかには確かにある。
2011年3月20日
   新世界
 ネットの質問サイトを活用した不正受験が話題になっている。
 ネットの質問サイトは確かに便利である。自分も困ったことがあるとたまに利用するが、見知らぬ誰かが大概きちんと答えてくれる。回答者にどういうメリットがあるのかはよくわからないが、多分それは「解決策を知っているよ」という親切心だったり、あるいは人に何かを教えたいという本来人間が持っている本能なのだろうと思う。そう考えると、質問サイトは善意で成り立っていたひとつのコミュニティだった。今回の事件はそのコミュニティの掟を崩したとも言える。
 不正受験事件は入学試験のあり方も根幹から揺らしたかもしれないが、ネットのあり方も揺らした。むしろネットのあり方についての問題提議の方がはるかに大きかった気もする。
 エジプトで起きたストやムバラク辞任にもネットの力は大きく加担したとされている。情報の伝播がネットの発展によって個人レベルにまで発信が可能となり、かつ加速度がこれまでとは比べものにならなくなっている。
 おそらくムバラク辞任はネットの果たした功績として言われるのだろうが、功があれば当然罪もある。韓国の有名スターの自殺などが相次いだのも記憶に新しいが、これもネットの中傷が一因と言われる。
 全体としてネットの持つ力の大きさが改めてこのところ再認識されているようだ。
 それは別な言い方をすると、ネットの世界が現実の世界にそれだけ浸透してきているということだろう。
 まだネットの空間は実際にはバーチャルと呼ばれ、現実の世界とはかろうじて一線を画しているが、いつかネットと現実との障壁がなくなる時代も来るかもしれない。あらゆる分野で世界という垣根がなくなりつつあるように、ネット社会と現実との壁がなくなる日も来るかもしれない。
 子供のころ鉄腕アトムのようなロボットの世界や、H・G・ウェルズが描くようなタイムマシンの世界にまったく新しい価値観があることを知ったが、ネットと現実が融解したときには、また新しい次元の価値観が生まれているのかもしれない。
2011年3月7日
   隣の人は何を思うか
 景気に楽観論が出ている。年明けには生産調整必至と言われていたが、意外に足元の受注は落ちていないという声が多い。エコカー減税やエコポイントの効果は受注の前倒しにしか過ぎず、必ずその反動は来ると考えるという見方も多いが、楽観視する人は「新興国向けに今後も需要は拡大し続ける」とみている。
 確かに国内市場は統計などをみても厳しいが、新興国の需要は拡大している。
 既に何年も前から言われてきたことだが、最早すべてのことはワールドワイドで考えなければならない時代で、国内のキーワードは絶対的な判断材料にはならないということかもしれない。しかし海外市場を抑えるのはやはりそれなりの苦労がいる。異文化のなかで成功を収めるというのはどういうことだろうか? と改めて思う。
 サッカーアジアカップの日本優勝は日本中を熱狂させた。ザッケローニ日本代表監督は、就任時に「今日から日本人の気持ちになる」と語った。また今だに評価の高いオシム氏も「日本代表を日本化する」という言い方をかつてしていた。
 ザッケローニ監督は「日本人は移動で自分の荷物を自分で持つ。ユニフォームも自分で片付ける」と驚き、感心していた。それを彼は日本人の几帳面さと受け止めて評価しているのだろうが、逆なケースを我々はむしろ考えないといけないと思う。
 外国に行き、自分のことを人任せにするのを見て「ダメだ」と思っていては、その国で何かを得ることはできないだろう。前述のエピソードは、おそらうイタリアではホペイロ(用具係)が仕事として日本よりさらに確立されているということが大きいだろうし、移動の際も荷物の管理はスタッフがするのが普通なのだろう。それはイタリア人が自分のことを自分でしないのではなく、そういうシステムなのだ。システムがむしろ整備されているという見方を日本人としてはすべきだろう。
 イタリア人のザッケローニ氏が日本を感嘆するのは構わない。しかし日本人がイタリアでイタリア人は自分のことをしないとそこで考えては、少なくともイタリアでは成功できないだろう。
 数年先の成果まではわからないが、少なくともアジアカップの快進撃はザッケローニ監督が「日本人の気持ちになる」とまで言ったスタンスと無縁とは思えない。その分野での先進国から乗り込み「この国の国民の気持ちになる」とはなかなか言えないと思う。凡人は隣人の気持ちにさえなかなかなれない。まして隣国となると難しい。しかし隣国国民の気持ちになることが必要なときもある。
2011年2月7日
   中身はからっぽ
 南アフリカ、ブラジル、ロシア、カタール。
 経済成長が続く新興国を列挙しているわけではない。サッカーワールドカップの開催国の順番である。あたかもここ4大会は新興国の持ち回りのようになる。
 先に開かれた開催国の決定選挙では、18年大会はイギリスが、22年大会はアメリカが有力候補だったが、18年大会はロシアがイギリスを抑え、22年大会はカタールがアメリカ、日本、韓国などを抑えた。イギリスではなくロシア、アメリカではなくカタールだったのは、何か象徴的な出来事だったような気がする。
 無論、そこにはFIFA内部の問題やロビー活動など招致運動の駆け引きの巧拙もあっただろう。ただ結果としては、最早ワールドカップは一部の先進国が交代で開催するものではなくなったということを世間に示した。
 たかがサッカー、ではない。世界はまさに一部の先進国がリードする時代ではなくなったのだろう。それが世界の今の現実だ。
 かつてG7だった先進国会議も今や8だか13だか20だか知らぬが、ともかくほとんど全体会議の様相となっている。それだけ新興国の発言力についても無視できなくなったということだろう。
 電機業界でも「新興国」がキーワードになって既に久しい。
 業界各社の人の話を聞くと、最近は「日本国内での販売はもうダメだ」という声が多い。かつては国内生産に見切りをつけたメーカーが、今度は国内販売にも見切りをつけて新興国市場での販売を加速させている。新興国で作り、国内や先進国で製品を売るというビジネスモデルはもう成り立たなくなっている。これからは新興国で作り、新興国で売る時代なんだそうだ。
 しかし考えてみれば、生産拠点もなくなり、販売も海外で行うようになり、この国には何が残るのだろうか・・。
 かつて「生産の空洞化」という言葉があったが、今はもうあまり使われなくなった。「・・・の」がとれて「空洞化」がもうそこまできている。
2010年12月24日
   ゆるい祖国、日本
 芥川龍之介が「ぼんやりとした不安」を理由に自殺をしたのは昭和2年のことである。
 芥川の言う「不安」は個人的なものが背景だったようだが、しかし社会的にも、芥川の死後、日本は軍国主義化の道をさらに辿り、太平洋戦争に突入していったことは事実で、既にそうした社会的不安が影を落としていたことも想像できる。
 戦後既に65年も経過して、戦争の記憶や痕跡は既に遠い。
 戦後65年も経つと、既に「戦争を知らない子供たち」という言葉さえインパクトがない。確かに戦争はそれだけ遠くなっている。
 しかしそんななか、急にここにきて国際間で緊張感が生まれる出来事が起きている。
 尖閣諸島問題、漁船の衝突、それを契機とした反日デモ。さらに国家機密ともいうべき資料の簡単な流出。また対中国だけでなく、北方領土でもロシアとの緊張関係が改めて浮き彫りになっている。
 まだ「ぼんやりとした不安」と言えるほどではないのかもしれないが、平和ぼけしている日本人にとっては、思いがけない緊張感を突きつけらている感はある。
 しかし個人的には、どんなに不安感が募ったとしても、芥川のように「ぼんやりとした不安」を口にするより、タレントの明石屋さんまの言うように「生きてるだけで丸もうけ」と考えている方が好きだ。
 少しずつ広がっていく不安に圧し潰されるのではなく、その前提としてまずここにある「平和」を実感したい。
 戦場カメラマンがテレビで笑いをとるこの国の「ゆるさ」が好きである。
2010年11月7日
   愛されることの難しさ
 歌手の広瀬香美さんが興味ある発言をしていた。
 歌番組がなくなり、またレンタルショップやダウンロードの普及によってCDも売れなくなり、歌手という職業は最早テレビ出演やCD売り上げだけではとてもやっていけないのだそうだ。ではどうしているかというと、今はコンサートが主な活動の場となっており、かつ収入源にもなっているという。
 そんななかで問題となるのは、コンサートの告知をどういう形で効果的に行うかということだ。そのために広瀬さんは、自分の活動に興味を持っている人を日頃から探し、そしてその人たちに効果的に告知をするということを常に意識しているという。
 なるほど、と思う。そして彼女の言うその最も効果的なツールが今のところツイッターというわけだ。
 かくして「冬の女王」とまで言われた歌手は、今やフォロワー数が33万人を抱えるツイッター界のカリスマとなり、ツイッター関連の本まで出している。
 ツイッターの広告効果については異論もあるが、別にそれをここで言いたいわけではない。自分あるいは自分の会社に興味を持っている人を効果的に探すことの重要性を指摘したいだけだ。結果的にそれがツイッターか、旧来の雑誌や新聞の広告であるかは、各人や各社の判断の違いだ。
 違う言い方をすれば、自分に興味を持っている人がどこにいるかを探すのに皆が苦労しているということである。
 「自分はこんなことができます」とアピールするのは比較的簡単である。問題はそれを「すごい」と思う人達を探すことである。これだけ情報化が進み、価値観が多様化すると、自分を愛して、自分のことをまず見てくれる人がとても重要になってくる。
 先日テレビを見ていたら、女優の吉瀬美智子さんが「私は、私を好きな人が好き」と言っていた。
 名言である。
2010年9月20日
   リンゴをかじる
 電機大手の業績予想の上方修正や四半期の好決算発表が相次ぐ。しかし国内大手は「リストラなど合理化の成果と、部品メーカーへの値下げ要求という弱いものいじめの結果」と陰口を叩かれる状況を思うと、米国アップルの強さは際立つ。
 アップルの4〜6月期は、売上高が前年同期比61%増、純利益は同78%増となっているが、そういう直近の数字だけではなく、これまでに「マック」「iPod」「iPhone」「iPad」と、次々にユーザーを魅了する新製品を投入、新製品というよりはむしろ新しい世界を創出する力はやはり群を抜く。
 ウォークマンを先駆けて出したソニーはどうして「iPod」を出せなかったのか? 日本の携帯メーカーはどうして「iPhone」に辿り着かなかったのか、という思いを抱く日本人も少なくないだろう。
 アイディアだけでなく、製造に対する考え方や何もかもがアップルは多くの日本メーカーとは異なる。
 アップルも機器本体は主に中国で製造、むしろそのEMSの仕様はオープンにしているが、開発は米国本社で行い、決して海外に移管しない。また設計や特許など知的財産は徹底的に守っている。
 価格設定においても、日本が圧倒的に強いゲーム機市場では、各メーカーはハードは安く売ってその後のソフト販売で利益をあげるという方法が一般的だが、「iPhone」などは機器そのものは決して安くはなく、むしろそれほど高くないソフトを多くオプションでつけている。
 アップルから学ぶべきものは少なくない。
 さらにアップルのジョブズ氏は「年内に驚くような新製品を出す」と言っている。
 メディアやアナリスト各氏は、早速「テレビだろう」とか「iPodの新タイプだろう」とか「マックの進化系だろう」などとまことしやかに推測している。そのどれかかもしれないし、まったく違うコンセプトの製品かもしれないが、大切なことは「何だろう?」「凄いものをまた出すんじゃないか」と我々に期待させるところだ。
 連日のように日本の電機メーカー各社の再編や、あるいは新製品などニュースはあり、そこには驚きを伴う場合もあるが、驚きと同時に期待感も抱かせるケースは、残念ながらほとんどないのが現実だ。
 意識を変え、まずはリンゴをかじる気持ちが日本メーカーには必要だ。疲弊している日本メーカーはリンゴをかじると血が出そうだが・・・。
2010年8月2日
   日本的な、あまりに日本的なコラム
  ワールドカップ南アフリカ大会が始まった。開催前は「(日本が出場とした最近4回大会のなかでは)最も盛り上がりに欠ける大会」と言われていたが、初戦に日本が勝利したことで一気にヒートアップしてきた。
 それにしても、サッカーはその国の国民性が如実に出る。
 アフリカ選手の身体能力の凄さには舌を巻くが、同時にディフェンスにはどこかに甘さがあり、きめ細かいことは苦手だという気がする。逆に日本はきめ細かく対応するが、攻撃の瞬発力や「個」の力や激しさではやはり見劣りする。同じアジアでもこれが韓国だと結構削ってくるし、今回のW杯には出ていないが中国はさらに厳しくぶつかってくる印象がある。ビジネスにおける日本の「技術はあるが、営業力やしたたかさに欠ける」という評価と、韓国や中国の国際社会での評価と奇妙に類似点があるのは、決して偶然ではないだろう。
 選手や試合だけではない。サポーターやメディアも同様に国によって様々である。
 今回の大会でも、イングランドのキーパーがボールをファンブルして失点したときのインタビューなどは日本のメディアでは考えられないシビアなものだった。またかつてはクリアミスでオウンゴールしたコロンビアのディフェンダーがサポーターから殺害されるという悲惨な出来事もあった。無論後者は行き過ぎだが、選手のバスに卵が投げつけられたり、得点を挙げられなかったフォワードが空港で水をかけられるのがニュースになる日本はまだまだサポーターやメディアも穏便だという言い方はできる。
 逆に言えば、そうやって暖かく見守るサポーターとメディアが、この国の組織力に富むが力強さに欠けるチームを助長しているという側面もやはり否定できないだろう。
 「W杯は戦争だ」と言われても「戦争」という言葉にも既に実感がない。
 かくして、日本が誇る組織力がどこまで世界に通じるか、という暢気な視点でW杯を見ることになる。そして仮に不甲斐なく憤慨することがあっても、せいぜいテレビに向かって罵倒する程度だろう。多くの日本人やメディアがそうであるように・・・。
2010年6月21日
   祭りばやしが聞こえる
  上海万博が始まり、連日のようにその熱気と混乱ぶりが報じられている。熱気と混乱の双方にいかにも中国らしさを感じた人は多いだろう。上海万博の本来の主役であるパビリオンより、そこを訪れる中国人にスポットを当てるのは奇妙な話だが、やはり中国人の持ついい意味でのバイタリティと、同時にどうしようもない無秩序が垣間見える点で、上海万博は興味深い。
 「草食系男子」が主流の日本が失ってしまったエネルギーと、そしておそらくはその裏返しだろう「弱肉強食」の世界が中国にはあるということを改めて認識した。
 多くの人が指摘するように、今の中国は確かにかつて日本が東京オリンピックと大阪万博を経てGNP第2位に躍り出た状況と酷似しているのだろう。しかし半面、上海万博の喧騒を見ていると、少し違うという気もしてくる。
 中国には、騙すより騙される方が悪い、という観念があると言われている。かなり薄らいでいるとはいえ「謙譲の美徳」という概念を持つ日本とは、そこは決定的に異なる。
 チケットを怒号とともに奪い合う様子は、中国の繁華街の喧騒では見慣れた風景かもしれないが、同じように貧しかったかつての日本でも果たして見慣れた光景だっただろうか? 同じ道を歩んでいるようだが、日本と中国の国民性は決定的に異なっている。それが今後どのような違いとなって現れるか? 
 ちなみに米国の著名投資家のマーク・ファーバーは、中国経済は減速し今後9〜12カ月以内に「クラッシュ」する可能性があるという見通しを示している。
 この予測やその時期が妥当かどうかは置くにしても、祭りは必ずいつか終わる。大切なのは祭りの後だ。祭りの無秩序は微笑んで見られるが、祭りの後の無秩序は単なる乱暴者の集団にしか見えない。
2010年5月4日
   ケセラセラ
  国税庁がまとめた「会社標本調査」によれば、国内法人およそ259万7,108社(連結子会社を除く)のうち、実に185万6,575社、率にして71.5%の会社が平成20年度には赤字決算だったようだ。規模が小さいところばかりでなく、ある程度の規模があると思われる連結法人748社についても、65.5%の490社が赤字だったとされる。
 足元では景気回復感が広がり、二番底不況の危機感も薄らいでいるようだが、改めて厳しい経営環境にあることが浮き彫りになっている。
 言うまでもなく、本来赤字になるというのは企業にとってあってはならないことで、それが全体の7割にまで及ぶというのは尋常ではない。
 過年度の内部留保があればまだよいが、多くの中小企業はそこまでの体力はないだろう。するとその欠損金はどう補填されるかというと、借入金に依存して急場を凌ぐということになる。セーフティネットなども整備されているが、いかに金利が低減されようが、借入金は所詮借入金である。
 本来企業にとって、借入金はレバレッジのためにあるもので(よい借金)、しかしそれが利益を生み出すためでなく欠損を補填するためになった途端にマイナスのスパイラルに陥る(悪い借金)。
 いったんこうした負の連鎖に陥るとそこから抜け出すには多くのエネルギーがいる。このエネルギーがないと、先に待っているのは、民事再生あるいは破産などの倒産ということになってしまう。
 それでも企業はまだ倒産すればいい。という言い方は少し乱暴だが、事実である。国は簡単には倒産できない。その国の法人の7割が赤字という状況のなかで、その国の先には何があるのか、と少し暗澹たる気持ちになる。
 しかしあまり深く考えることはないのかもしれない。
 3月のせいか、多くの道路が年度末で工事をしている。別に塗装し直す必要もない道路もきちんと舗装し直してくれる。これから子供手当てもつくし、高校も無償化されるらしい。法人税引き下げの議論もあるようだし、ありがたいことである。多分この国はどこかにものすごくお金があるんだろうと思う。
2010年3月22日
   みかんの話
  財政再建に苦しむギリシャへの対応で欧州が揺れており、小国ギリシャの動向が欧州全体に影を投げかけている。欧州共同によるユーロが登場して新たな経済の機軸が誕生、欧州全体の底上げになるとも期待されたが、リスクを改めて示した。
 かつて金八先生は「ダンボールのなかにひとつの腐ったみかんがあるだけで、ダンボールのなかのすべてのみかんが腐ってしまう」と言った。もしかすると先人の言葉を金八先生はもじったのかもしれないが、蓋し名言である。
 組織全体がダメになるケースには様々な事例がある。環境や時代の変化があまりにも急で対応しきれない場合もあるし、トップに立つ人間の能力不足もある。しかし個人的にはこの「腐ったみかん」が組織をダメにしてしまう場合が意外に多いという印象を持っている。
 みかんが腐っているかどうかは比較的簡単にわかる。難しいのは蘇生が可能かどうかだ。またその腐り方もさまざまで、芯から腐っている場合もあるだろうが、回りがダメで腐らせてしまっている場合もある。いずれにしても、本当に腐ってしまったみかんはやはり外に出さなくてはならない。それができないと、結局は組織全体がダメになる。
 無論、なんでも簡単に摘出すればいいというわけにはいかない。足を引っ張っていることがはっきりしても、欧州連合からギリシャを簡単に離脱させるわけにはいかないだろう。ひとつの国の問題はみかんとは全然違う。
 だからみかんの例え話は、欧州の経済の話や、ましてどこかに実在していたかのような会社の話や、あるいはどこかの国の政治の話をしているわけではない。
 あくまでも単なるみかんの話をしただけだ。
2010年2月28日
   意味なんてないけど
  この前、髪の毛が少しはねていたとき「意味なく、はねている」と言われ、思わず苦笑した。
 そりゃ意味なんかないさ、と思ったが、そもそも「意味ない」という言葉に意味を求めてはいけないのだろう。
 渋谷あたりを歩いている女子高生がしきりと「意味ない〜」と連発しているのは、ほとんど感覚で言っているのであって、その価値観にまで言及しているわけではない。言わば軽いノリなのだろう。
 そういえば10代の女子高生のアンケートを見ていたら、最大級の賛辞は「神」なんだそうだ。
 「これ、マジ神」とそこらのグッズを指差して言っているのを、宗教家はどう捉えるのだろうか、と考えると苦笑する。
 おそらく多くの若者たちは、宗教も価値観も関係なく、「神」とか「意味ない」とかいう言葉を使っているのだろう。それを嘆いたり憤ったりする方もなかにはいるだろうが、私はむしろそういう時代だと軽く受け止めたい。
 ヒット製品には「なぜこれが?」と価値に首をひねるものがときどきある。しかしそれを論じるのはそれこそ「意味ない〜」のだ。
 実際に世の中のブームを作り出すのは若者層である。そう考えると、こうした感覚的な世代が実際の消費者であり、購買層であることを理解して世の中の仕組みを見なければ、流行の仕組みはわからないのだろうと思う。
 「そんなこと考えても意味ないし〜」とか言われたりして。
2010年1月25日
   初夢
  新しい年を迎え、やはり思いは新たになる。
 2010年の景気見通しは様々である。各社にヒヤリングをすると、「最悪期は脱したのではないか」とする企業も多いが、半面「まったくよくなっていない」という声も聞く。前者は上場大手の役員、後者は中小企業の経営者や営業など現場の人々の声が多いと感じるのは気のせいだろうか。
 デフレスパイラルによって生み出された恩恵と歪みがそのまま投影されているとみるのはいささか短絡的かもしれないが、あながち的外れでもない気はする。
 いずれにしても、市場原理として価格競争は避けられないが、そこに景気回復の突破口があるとは考えにくい。やはり大切なことは新たな需要の創出だろう。
 想像もしなかった新たなツールが日本から世界市場に送り出され、2010年が日本の復活の始まりになることを願ってやまない。
 それが私の2010年の初夢である。
2010年1月4日
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